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[ヒロシマの空白 街並み再現] 被爆前年 被服支廠の日常 貴重な写真3枚 元事務員の遺族が保管

植木鉢並ぶ庶務部職場など

 広島市内最大級の被爆建物「旧広島陸軍被服支廠(ししょう)」=南区=で原爆が投下される約1年前に撮影された、貴重な写真が3枚見つかった。元事務員の遺族が保管するアルバムに残されていた。戦時体制がますます色濃くなっていった時期の「軍都広島」の日常を伝える。(桑島美帆)

 不意に同僚に声をかけられ顔を上げたのだろうか。書類や植木鉢が並ぶ机で事務作業中の女性を捉えた小さなモノクロ写真は1944年9月、広島陸軍被服支廠庶務部で撮影された。正門近くにあった木造2階建ての1階とみられ、窓から日差しが入る様子も分かる。

 女性は小柳(旧姓中川)ツネ子さん(2004年に82歳で死去)。市職員だったが1942年7月に結婚退職し、同年11月から被服支廠の庶務部労務係で働き始めた。「女性は仕事を続けるべきだと常に言っていた。夫が戦地へ行き、自分も何かせねばと思ったのだろう」と長女の森本みどりさん(73)=西区。

 関連資料や証言を集めている市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」幹事で、原爆資料館職員の菊楽忍さんは「職場の普段の様子を撮ったカットはわずかしか確認されていない。庶務部の写真は初めて見た」と話す。

 反戦画家の四国五郎さん(24~2014年)は、14歳から5年ほど、被服支廠で働いた。戦後につづった「わが青春の記録」にも、同じ頃の庶務部とみられるスケッチがある。

 被服支廠は13年ごろ、宇品線沿線の約17ヘクタールの敷地に13棟が建設された。庶務部が入っていた建物は、それらと隣接する一角に同時期に建てられたとみられる。

 軍服や、軍靴、毛皮のコートや蚊帳などが倉庫群で製造され、学徒も多数動員された。爆心地から約2・7キロで原爆の爆風にさらされたが、れんが造りの4棟は倒壊を免れ、臨時救護所に。重症の被爆者が次々と運ばれ、地獄絵と化した。

 小柳さんが庶務部で事務員として働いたのは、1945年7月下旬まで。東雲町(現南区)の自宅で被爆した。10月から市の戸籍課を手伝い、安否確認や死亡届を記入する作業に追われた。生前、被服支廠について家族に話すことはほとんどなく、被爆後の混乱を問われると、言葉を詰まらせ、口を閉ざしたという。

 今、4棟のれんが倉庫の保存活用が議論されている。孫の野上恵さん(49)=西区=は「祖母は被爆建物から復興への意欲をもらい、戦後を生き抜いた」と力を込める。写真データを懇談会に寄贈し、祖母の体験を広めていく。

(2021年4月19日朝刊掲載)

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