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[ヒロシマの空白] 被爆直後 御幸橋で救護 あの日翌日 手紙残した医師・松林保太郎さん 松重さん写真 家族が姿確認

 「奥に写っているのは義父だと思います」。中国新聞の写真部員だった故松重美人さんが1945年8月6日、広島市中区の御幸橋西詰めで撮影した写真。医師の松林登喜子さん(89)=中区=は、負傷した市民の奥に小さく写る白いシャツ姿の男性を指さした。被爆直後から現地で救護に当たった医師の松林保太郎さん(1890~1961年)だという。(明知隼二)

 松重さんが同日午前11時すぎ、御幸橋西詰めの派出所付近に集う負傷者たちを撮った最初の1枚だ。衣服も髪もボロボロになった市民の中で、男性のシャツはひときわ白い。登喜子さんは「横顔や髪、けが人を見る医師としての視線。家族から見て間違いありません」と確信する。

 千田町(現中区)に開業していた保太郎さんは、被爆当時は54歳。当時の医師は空襲に備えるため郊外への疎開が禁じられており、保太郎さんも地区の救護部長を担っていた。空襲の際は近隣の医師たちと千田国民学校(現千田小)に救護所を開く手はずで、被爆前夜も空襲警報を受けて未明まで学校に詰めていた。

 6日朝、爆心地から約1・7キロの自宅兼医院で被爆した。千田国民学校は全壊・炎上したため、代替地に定めていた同約2・2キロの御幸橋西詰めの派出所前の空き地に仮救護所を設けた。

「学徒全身火傷」

 保太郎さんが亡くなる直前の60年12月に残した手記によれば、「距離と時間の関係上か」当初は外傷者が少なく、手持ちの強心剤の注射で対応。次第にけが人が増え、「軍の救護隊によって重症者はトラックに積み宇品方面へ運び、軽傷者には応急処置を施した」。市街地で建物疎開に動員されていた学徒も「全身火傷(やけど)びらん疼痛(とうつう)を訴え泣きながら」逃れてきたという。

 保太郎さんは「正午前後」まで救護を続けたと明記しており、松重さんの撮影時点では派出所付近にいたとみられる。同じ場所で活動した医師はほかに、近所の歯科医だった田中米蔵さんだけだったとも記す。

 松重さんは2枚の写真を撮った後は翠町(現南区)の自宅方面へ。保太郎さんは軍人に促され、負傷者たちと大河(同)方面へと逃れた。その後約2年間、奥海田村(現海田町)などで被爆者治療に携わる。

 保太郎さんは48年に現在地に医院を再建し、61年に亡くなった。登喜子さんはその前年、保太郎さんの次男保英さんと結婚した。義父の被爆や救護の経験について聞く機会はなく、手記の存在も知らなかった。夫の保英さんも広島二中時代に南観音町(現西区)の動員先工場で被爆したが、やはり多くを語らなかった。

 登喜子さんは、被爆後の救護活動について調べていた中国新聞の取材をきっかけに、自宅に残る資料を精査。保太郎さんの手紙や手記などを見つけた。御幸橋での救護など、当時の足取りを初めて詳しく知ったという。

「自分を顧みず」

 折しも、松重さんが被爆当日に撮ったネガフィルム5点が市重要有形文化財に指定され、御幸橋の写真が新聞にあらためて大きく掲載された。親族でも話題になり「もしや」と目をこらすと、保太郎さんの姿を認めた。

 「自分の体を顧みず働く人で、戦前も1日40~50件の往診をしていたと聞きます。被爆直後も献身的に救護していたんですね」。今月、医師としてともに歩んできた夫保英さんを見送った。91歳だった。「家族の中で義父がよみがえり、その歩みを最期に分かち合えた。救われた思いです」と穏やかな表情を見せた。

(2021年6月21日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白] 医師が記した8・6 千田町の松林さん 娘に手紙

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