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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <3> 元隊員

「焦熱地獄」急行し救援

惨状の証言 年々細る

 「もう記憶がボヤーっとしとりますが」。東広島市豊栄町の部谷(ひだに)一真さん(98)はそう話しながら、青々とした山並みを望む縁側のソファに腰を下ろした。かつて所属した旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」について問うと、言葉を一瞬失い、おえつを漏らした。「そうです、確かにいました。ああ…」

 教員だった1943年ごろに召集され、終戦後までの約2年にわたり輜重隊に所属。主に軍馬の世話を担当した。「初めはかまれたこともありましたが、そのうち厩舎(きゅうしゃ)に入ると鼻を寄せてくるようになってね」。軍馬が人間以上に大切にされる中でも、馬は「心の友だった」と振り返る。

 45年8月6日には、幹部候補生を訓練していた馬木(現広島市東区)の演習場に教官として派遣されていた。閃光(せんこう)とごう音に続いて広島上空が巨大な雲に覆われていくのを見て、偵察を送り出した。基町(現中区)の拠点は近づくのも困難なほどの惨状と知り、医薬品や食糧を持って救援に向かった。

 部谷さんは、旧厚生省が95年に募った体験記に当時の状況を書き残している。「真夏の(午後)4時から5時。火の粉がとんでくる中の行軍。焦熱地獄とはまさにこのことか」。部隊跡では「かけずり廻(まわ)りながら息のある者を捜し、姓名も確かめながら運んだ」。

 爆心地から1キロ以内にあり、400人以上が犠牲になったとされる輜重隊。馬木に運ぶと決めた負傷者も夜明けを待つ間に次々と亡くなり「果たして幾人馬木に向かったか、そう多くはなかった」とも記した。

軍馬に愛情込め

 隊はその後、現安佐北区に拠点を移し、敗戦を挟んで残務処理を続けた。軍需品の多くを失っていたが、部隊幹部が残した手記によれば、郊外に移していた馬7頭が生き残っていた。「愛情を以(もっ)て飼育している」世話係の兵に払い下げ、郷里に帰したという。

 部谷さんはその一人だったとみられる。「ホローという名の馬を連れて帰りました。助かって良かったなあ、と声を掛けて」。部谷さんは豊栄に戻ると小学校の教員に復帰し、校長まで務めて退いた。今は週3日のデイサービスに通いながら自宅で過ごす。

 サッカースタジアムの建設予定地で隊の遺構が見つかったと伝えると「若い人たちが運動場として使いたいなら尊重したい。ただ、思い出の地として残してほしい気持ちはある」と控えめに語る。街に新たな歴史が積み重ねられる中で、せめて記憶にはとどめてほしいとの願いがにじむ。

「少し早ければ」

 取材を進めるともう一人の健在者が見つかった。岩国市の桑重寛さん(96)。厚生省の募集に応じた手記では、幹部候補生の一人として馬木の演習場に送られており、部谷さんと同じく市内に救援に入っていた。

 「もう少し早ければ自宅に住んでいたんですが」。長男和昭さん(68)によると、今は近くの高齢者施設で暮らしているという。コロナ禍で面会が制限されているが、施設側の計らいで和昭さんが特別に被爆前後の状況などを尋ねてくれた。しかし部隊について手記以上の情報は得られなかった。

 輜重隊跡地の一角には今も、戦争に倒れた馬を悼む「馬碑」が被爆に耐えて残る。2007年に傍らの説明板を設けた13人の元隊員有志は、健在なら90代後半よりも高齢。4人の死去を確認したが、健在者にはたどり着けなかった。元隊員の肉声を聞く機会は年を追うごとに少なくなっている。(明知隼二)

(2021年7月15日朝刊掲載)

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