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[平和を奏でる明子さんのピアノ] 恩師のバイオリンと再会 熱心な指導 生前の姿語る パルチコフさん最後の教え子

 白系ロシア人被爆者のセルゲイ・パルチコフさん(1893~1969年)は、昨年の文化面連載「平和を奏でる 明子さんのピアノ」で足跡を追ったバイオリン教師だ。その最後の教え子に当たる三原(旧姓河石)霜子さん(91)=広島市西区=が原爆の日の6日、平和記念公園(中区)内の被爆建物レストハウスで、生前の恩師が愛用したバイオリンと再会した。76年の時を経て、パルチコフさんにまつわる知られざるエピソードを語った。(西村文)

 温かなバイオリンの音色を、ピアノの伴奏が優しく包み込む。バイオリンはパルチコフさんの遺品、ピアノは広島の原爆で亡くなった女子学生河本明子さんの遺品だ。二つの被爆楽器が奏でる「浜辺の歌」に、関係者席から三原さんがじっと耳を傾けた。6日のレストハウスでのオンライン演奏会。非政府組織(NGO)ピースボート(東京)が主催し、インターネットを通じ国内外に発信した。

 三原さんは太平洋戦争開戦の翌年、1942年に広島女学院高等女学部(現広島女学院中高)に入学。間もなく、パルチコフさんから放課後にバイオリンを習い始めた。呉市で医院を開業していた父が音楽好きで、姉2人はオルガンを習っていた。「霜子は手が大きいからバイオリンにしなさい」と父に勧められたという三原さん。「最初は嫌々で。良い生徒でなかった」と苦笑いする。

 パルチコフさんは26年に同校の音楽教師になり、バイオリンとオーケストラを指導していた。明子さんののこした日記には「バイオリンの先生」として記されている。「熱心な指導だった」と回想する三原さん。「そんな音は駄目ねーと、何十回も弾き直しを命じられた」。サボって寮にいると、「毎日弾かないといけません」と呼びに来られたという。徐々に褒められる機会が増え、バイオリンを弾く楽しさに目覚めた。

 しかし、レッスンは1年で終わった。キリスト教系の同校への軍部の圧力が強まり、パルチコフさんは43年にスパイ容疑で連行され退職に追い込まれた。

 45年8月6日、三原さんは学徒動員先の比治山(現南区)の寺院で、戦没兵の遺骨を分別する作業中に被爆。倒壊した建物の下敷きになり、腕にはやけどを負ったが、助かった。パルチコフさんは牛田(現東区)の自宅で被爆したが生き延び、戦後、東京を経て米国に渡った。

 三原さんは、被爆から1年後の8月6日、移住先の東京から広島を訪れていたパルチコフさんと偶然、再会したことを鮮明に記憶していた。現在の平和記念公園で追悼の合唱に参加していた時、白いシャツ姿のパルチコフさんが現れ、「河石さん! あなたのバイオリンを譲ってください」と呼び止められたという。

 三原さんは女学院時代にバイオリンを習うに当たって、パルチコフさんの仲介で当時最高級品だったドイツ製のバイオリンを購入していた。原爆の日は呉市の実家に保管していて無事だったが、戦後間もなく不慮の事故で壊れてしまった。「先生は原爆で傷ついた愛器の代わりを求めて、東京からやって来たのでは」。がっかりして去っていく恩師の後ろ姿がまぶたに焼き付いている。

 パルチコフさんの被爆バイオリンは86年、遺族が広島女学院に寄贈。2012年に修復され、音色を取り戻した。レストハウスでのオンライン演奏会ではノートルダム清心高3年の坂直(すなお)さんが奏で、三原さんの孫でピアニストの三原有紀さん(横浜市)が弾く「明子さんのピアノ」と共演した。

 「坂さんは当時の私と同じくらいの年齢だけど、ずっと上手。パルチコフ先生が手本として弾いてくださった音色を思い浮かべた」と笑顔の三原さんに、そっと寄り添う有紀さん。「小学生の時から祖母の被爆体験を聞いてきた。今日の感動を胸に、音楽を通じて思いを継承していきたい」と誓っていた。

 オンライン演奏会「奏で継ぐヒロシマ」は動画投稿サイト「ユーチューブ」で無料配信している。

 セルゲイ・パルチコフ 帝政ロシアの元貴族。ロシア革命で母国を追われ、1922年、妻子とともに日本に亡命した。26年に広島女学院の音楽教師となり、17年間務めた。同付属小4年生だった河本明子さんたちを指導した。

(2021年8月13日朝刊掲載)

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