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核の恐ろしさ 読み継がれる ハーシーのルポ「ヒロシマ」発表75年 きのこ雲の下と向き合う

 米国で75年前、ジャーナリストのジョン・ハーシーによるルポ「ヒロシマ」が発表された。米軍が原爆を投下した翌年に、占領統治下の広島で取材。それまで明かされていなかった被害実態を世に示した。核時代の危機を原爆投下国の市民と世界に突きつけた功績は高く評価され、世界で読まれ続けている。(金崎由美、桑島美帆、湯浅梨奈)

原爆ルポ「ヒロシマ」に検閲 46年の米誌 「熱線」「雨」表現弱まる 開発責任者の指摘確認

発表までの曲折浮き彫り ルポ「ヒロシマ」に検閲の跡 米軍、世論の反発警戒

 市民が思い思いにレジャーを楽しむ絵をあしらった表紙の雑誌「ニューヨーカー」1946年8月31日号。平和的な雰囲気を醸すが、全ページを埋めるのは「ヒロシマ」だ。

 ハーシーは同年5月から広島に約2週間滞在し、6人への聞き取りを基に記事を書いた。広島流川教会の谷本清牧師やドイツ出身のウィルヘルム・クラインゾルゲ神父、広島赤十字病院(当時)の佐々木輝文医師、夫を戦争で亡くし3人の子を育てる中村初代さんたちである。

 市民の日常が突然奪われたさまや、地獄絵と化した泉邸(現縮景園)の惨状、放射線障害の苦しみを詳細かつ抑制的な筆致で記す。8月29日にニューヨーク市内の店頭に並ぶと、即完売。すぐに書籍化され、さらに広まった。

 「米国人は、市民の上に原爆を落としたと知らされていなかった。世界に核兵器の本当の恐ろしさが伝わったんです」。広島流川教会(広島市中区)の礼拝堂で、ハーシー自身の書き込みがある単行本を手にした谷本さんの長女、近藤紘子さん(76)=兵庫県三木市=が語った。「一つになる赤ん坊」と言及されている。

 占領下の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)がプレス・コードを発した45年9月以降、原爆の残虐性を記す報道は検閲された。米国内でも陸軍の監督下で事実上の検閲があった。破壊力を劇画的に描写する報道はあっても、きのこ雲の下にいた名前を持つ人間の悲惨と向き合う報道ではなかった。

 米国内が日本との戦争の勝利に沸いていた時期でもある。しかしハーシーは谷本牧師に「人道主義の立場から被害調査をしたい」と切り出したという。

 谷本牧師たちの名は一躍知れ渡った。「米国の市民から洋服やミルクが入った小包が次々に届いた」と近藤さんは記憶する。谷本牧師はたびたび渡米して教会の再建資金を集め、原爆孤児を支援する「精神養子」、重いやけどを負った女性たちの渡米治療など数々の活動につなげていく。

 谷本牧師が自ら翻訳に参加し、日本語版が法政大学出版局から刊行されたのは49年4月。しかし4カ月後、ソ連が核実験に成功。冷戦下の核軍拡は激化の一途をたどる。

 「医学的問題も含め、経済的な影響や差別など、新たに加わった被爆者の苦悩を知りたい」とハーシーは85年4月に広島を再訪した。39年ぶりに6人の足取りをたどり、7月15日号のニューヨーカー誌で「ヒロシマ その後」を発表。日本語訳を同年8月1~6日付の中国新聞に連載した。

 広島国際文化財団が取材に協力し、当時のスタッフ長沼奈緒子さんが事前調査や取材同行を担当した。谷本さんたちとの再会を喜びながら、通訳の言葉を速記する姿に「相手への共感と誠実さを感じた」と振り返る。「同時に、ジャーナリストらしい冷静な視点も」。2003年に「その後」は単行本に追録された。締めの一文は「谷本氏は少しばかり活力が衰えてきていた。谷本氏の記憶も、世界の記憶と同じように、まだらになってきていた」だった。

 体験者の高齢化という現実。「核兵器が再び使われてはならない」という教訓を忘却しがちな世界―。核軍拡競争が頂点にあった時期の洞察と警告だ。

 ハーシーは「1945年以来、核兵器使用を阻止してきたのは広島の記憶である」とし、被爆体験を伝える大切さを説いた。一方で「ヒロシマ」は、残留放射線の影響がないかのように記しているとの批判もある。被爆者が自らの声を世界に発することは許されなかった46年当時を越えて、広島と長崎は「記憶」を共有する努力を重ねてきた。営みを続けなければならない。

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「ヒロシマを暴いた男」出版 ブルーム氏

使用「タブー化」 意義大きい

 「ヒロシマ」出版までの経緯を綿密な取材と文献調査で浮き彫りにした本が昨年米国で話題になり、今年7月に「ヒロシマを暴いた男 米国人ジャーナリスト、国家権力への挑戦」(集英社刊)として日本でも出版された。著者でジャーナリストのレスリー・ブルーム氏(カリフォルニア州)に聞いた。

  ―広島でどのような取材をしましたか。
 2018年に滞在し、多くの人から貴重な協力を得た。谷本清牧師の長女の近藤紘子さんと爆心直下の病院前に立ち、青空を見上げてあの瞬間を思った。被爆時に着ていた小さなワンピースを見せてもらった瞬間、娘を育てる母として打ちひしがれた。

  ―本書から1946年当時のハーシーの苦労が伝わってきます。
 広島入りの許可は占領当局次第。移動用の車や燃料、食糧も米軍支給だ。記者の動きはコントロールされた。それでも広島で取材ができたのは、占領政策に反する報道のリスクは低いと見なされたと言えるだろう。ハーシーは戦争中、後のGHQ最高司令官マッカーサーなどの人物像を肯定的に書いた実績がある。

  ―掲載を決断した雑誌編集者たちと、どんな意識を共有していたのでしょうか
 核時代がいかに恐ろしく、米国民にも起こりうるかを人間的に伝えよう。それが、担当編集者のウィリアム・ショーンたちとハーシーの思いだった。

  ―オッペンハイマーと並ぶ原爆開発の責任者、レスリー・グローブス中将に検閲を回したといいます。驚きました。通ると踏んだ理由をどう推測しますか。
 敵国の市民の痛みに無関心だろう、と編集者が見通した可能性がある。広島を現地調査した複数の被害報告書などから、原爆被害者は研究対象であると考えられ始めたことも知っていただろう。一方、グローブスの側も『原爆は恐ろしいからこそ対ソ連で優位を保つのに必要』と国民を説得するのにむしろ役立つと思っていたようだ。

  ―「ヒロシマ」以降の原爆批判を受け、翌年2月には原爆投下時の陸軍長官が「原爆が100万人の米兵の命を救った」という原爆神話の基となる論文を発表します。
 皮肉にも「ヒロシマ」は、「核の正当化」に都合良く利用された面がある。だがそれ以上に、米国人の意識を呼び覚まし、権力者に核使用をためらわせる「核のタブー化」を強めた意義は大きい。

  ―ジャーナリストとしてどんな思いを著書に込めたのでしょうか。
 実はハーシーに着目したのは、2016年の米大統領選がきっかけだ。トランプ氏は私たちを「敵」と呼んだ。ならば報道の自由に資する題材に取り組むと決めた。「ヒロシマ」は、権力を握る当局が封じていた事実を積み上げ、世に問うた調査報道の原点。ジャーナリズムとして今こそ知るべき作品だ。

米高校で大量廃棄も

 「ヒロシマ」は各国語に翻訳され、世界で読み継がれている。今夏はスロバキア語版が出版された。

 8月15日、スロバキアのコメニウス大東アジア研究所の橋本玲奈講師(35)と日本語専攻の学生2人が、カナダ・トロント在住の被爆者サーロー節子さんからオンラインで話を聞いた。出版に合わせ企画された。

 原爆孤児の救済に奔走する谷本清牧師との出会いや、ローマ教皇フランシスコに謁(えっ)見(けん)した際「ヒロシマ」を手渡した2年前のエピソードが語られた。4年のマルティナ・シャラムーノヴァさん(23)は「もっと広島で起こったことを知りたい」と日本語で語る。蜂谷道彦医師が被爆直後の惨状を記録した「ヒロシマ日記」もチェコ語版で読んだという。

 米国で「ヒロシマ」は、高校の副読本などとして普及した。だが「風化」の兆しもある。

 「約15年前までは3割の学生が高校の時に読んでいたが、今は40人中2人いるかどうか」。広島市出身の被爆2世で、シカゴ・デュポール大宗教学部の宮本ゆき教授は語る。シカゴ市内の高校の図書室から除籍本の大量廃棄が進んでいると最近知り、衝撃を受けた。

 「古くなったし、電子書籍で読めるから、というのも分かるが…」。広島と長崎の「記憶」が遠のく象徴に思えた。これを機に一念発起し、公立中に出向いて授業を行うプロジェクトを企画中だ。「自分の足元の問題として核について考えてもらいたい」と願う。

ジョン・ハーシー
 1914年、中国・天津で宣教師の家庭に生まれる。米エール大と英ケンブリッジ大に学び、第2次世界大戦中はタイム・ライフ社の従軍記者として各地を取材。「アダノの鐘」で45年米ピュリツァー賞。46年発表の「ヒロシマ」は「20世紀米ジャーナリズムの業績トップ100」で、環境問題を告発したレイチェル・カーソン「沈黙の春」を上回り第1位。米タフツ大准教授だった秋葉忠利元広島市長が提唱し、79~88年に米国の地方紙記者ら34人を広島・長崎両市に招いた広島国際文化財団の事業で選考委員を務めた。93年死去。

(2021年8月30日朝刊掲載)

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