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連載・特集

核兵器はなくせる 第3章 特集・非核地帯宣言のモンゴル

■記者 吉原圭介

 核兵器保有国のロシアと中国に挟まれたモンゴルは、民主化後に両国と新たな友好条約を結び、国連総会で「非核地帯」宣言をした。さらに民主化を支援した日本や米国など「第三のパートナー」のいずれとも関係が密になりすぎないよう、バランスをとって自国の安全保障を図っている。大国からの翻弄(ほんろう)をかいくぐる、その独自の平和的戦略を紹介する。

国連決議 実効性図る 国際会議で連携拡大

 モンゴル帝国の初代皇帝チンギスハンが、首都ウランバートルの市街地を見守っていた。2006年の建国800年を祝う巨大モニュメント。全国21の県から集めた石で、縦240メートル、幅320メートルの顔が描いてある。

 だが、建国800年の歩みは平たんではなかった。1911年の辛亥革命まで200年以上にわたり清の支配下にあった。その後ソ連の下で社会主義化したこともあり冷戦期はソ連の「衛星国」といわれた。60年代には中国とソ連の対立が表面化。64年の中国の核実験を前に、ソ連が核施設の攻撃を検討するなど、この時代にモンゴルが核被害の現場になる危険があったことが非核政策の原動力になったという。

 そして民主化してほぼ20年になる今、街にはレーニン像が残る一方、中央郵便局のビルの壁にはコーラ飲料の大きな看板がかかる。人々は英雄チンギスハンの巨大さに、繁栄と安定、そして平和への願いを託しているのだろう。

 民主化後の92年に「非核兵器地帯」を宣言したモンゴル。98年の国連総会決議により、国際社会がその地位を認めた。これにとどまらず、2000年には国内での核兵器の開発や生産、保有だけでなく、部品などの領域内通過も禁じた国内法を制定。あの手この手で非核政策をより実効あるものにしようとしている。

 国連アジア太平洋平和軍縮センター所長を務めていた際にモンゴルの非核地帯政策を支援した石栗勉・京都外大教授(61)は「普通は宣言をして終わるところを、国連総会での決議採択によって国際社会の『議題』としたのはモンゴルの優れた外交努力であり、称賛できる。国連を有効に使い、うまくいった好例だ」と評価する。

 今年4月27、28の両日にはウランバートルに、中南米や南太平洋など世界の4非核地帯から代表者が集結。来年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け、どんな働きかけをするかなどを協議した。この国際会議もモンゴル政府が主導した。

 面積は日本のほぼ4倍。人口は広島県をやや下回る約270万人。この小さな国の果敢で小気味よい挑戦が、大国を動かすだけでなく、非核地帯のネットワークを広げようとしている。

 現在、発効済みの非核地帯条約に参加する国は、モンゴルを含めれば65。署名は既に終えた「アフリカ」が発効すれば一気に119に増える。それは国連加盟国192の62%を占めることになる。


「非核地帯」政策を推進 エンクサイハン氏に聞く

 モンゴルの「非核地帯」政策を中心となって推進し、国連大使として1998年の国連総会決議にも尽力したジャガルサイハン・エンクサイハン駐オーストリア大使(58)に、その戦略を聞いた。

 -いつから「非核地帯」政策のアイデアがあったのですか。
 90年からだ。モンゴルが民主化し、ソ連軍が撤退を始めていた。オチルバト大統領の外交顧問だった92年に提案し、国家安全保障会議で検討した。対外政策を練り直し、モンゴルの主権と安全保障のためロシアとも中国とも信頼関係を築き、バランスを保ちながら自国を守ろうとした。それは両国の利益にも合致すると考えた。

 この政策の本質は大国の核政策と核拡散への拒絶の表明だ。すべての核兵器保有国からの中立と不介入を保ちたいとの願いでもある。私一人の功績ではない。もし大統領がロシアや中国と相談していたら国連での宣言はできなかっただろう。わが国が単独で決断した大きな一歩だった。

 -国連での宣言だけでなく、総会決議まで得た理由は。
 宣言には保障がない。立場を表明するだけだからだ。どう実現するのか、違反する国がいたらどうなるのかも分からない。国際社会に認めてもらうことが大事と考えた。

 -決議までの苦労は。
 核兵器保有国と意見を交わしたが、楽ではなかった。ロシアと中国はもちろん、米国も本心では賛成でなかったと思う。モンゴルのように単独で非核地帯になる国が相次ぐと、核兵器が通過できなくなるなどの問題が生じ、困るからだ。

 -北東アジアの非核兵器地帯化でも、それぞれの国が暫定的に非核の地位を得るよう提案されていますね。
 まず信頼醸成と、条件の公平化が大事だ。各国が非核地位を宣言して核の傘から離れ、核兵器保有国からの安全保障をそれぞれが得る。その上で北東アジア非核地帯条約の交渉を始めればいい。

 -日本政府のとるべき政策は。
 オバマ米大統領がプラハ演説で、日本への原爆投下の道義的責任を表明した。これで日本は積極的に動けるのではないか。核兵器廃絶や核軍縮に向け、多くの国が活動をしている。日本政府はその中心になってほしい。文書を出すばかりではなく、行動が大事だ。

 日本政府が熱心に、積極的に行動すれば国連はもちろん、核兵器廃絶を目指す国々は応援するだろう。米国がどう出るか分からないが、ロシアや中国、韓国も歓迎するはずだ。


<新生モンゴルの非核化に関する歩み>

1990年3月 人民革命党が中央委総会。一党独裁を放棄し、改革に踏み出すことを決議

1990年 9月 大統領制に移行。オチルバト初代大統領を選出

1992年1月 新憲法を採択。発効は2月。国名はモンゴル人民共和国からモンゴル国へ

1992年9月 オチルバト大統領が国連総会で「非核兵器地帯」宣言。「地域と世界の軍縮、信頼強化のためにモンゴルは、国土を非核兵器地帯と宣言する。それが国際的に保障されるよう、適切な政策に取り組む」

1992年12月 タス通信がモンゴル駐留ロシア軍の撤退完了と報道

1993月1月 ロシアと友好協力条約締結。ロシアは外国の軍隊、核兵器などの領土内への配備・通過を認めないモンゴルの政策を尊重することを約束

1993月10月 中国の外務省報道官が非核兵器国としてのモンゴルを歓迎・支持すると表明▽米国が、モンゴルが核攻撃された場合には支援すること、モンゴルに対し核兵器の使用・威嚇をしないことを確認

1993月11月 英国も同様の表明

1994年1月 フランスがモンゴルへ核兵器の使用・威嚇をしないと確認

1994年4月 中国と友好条約。「中国側はモンゴルの独立、主権、領土保全およびその非核兵器地位を尊重することを再度表明」と共同新聞発表

1996年10月 国連総会でモンゴルを含む中央アジア非核兵器地帯創設決議の可能性を探るが、モンゴルは国境を接していないため理解が得られず断念

1997年4月 国連軍縮委員会に「一国非核兵器地帯」のための作業文書を提出

1998年12月 国連総会が「モンゴルの一国非核の地位」決議を無投票で採択

2000年2月 「モンゴルの非核兵器地位に関する法律」を制定。第1条で目的を「モンゴルのすべての領域に核兵器が存在せず、モンゴルの安全保障を確保する」と規定

2000年10月 国連総会第1委員会で5核兵器国が「98年の国連総会決議実施のためにモンゴルに協力する誓約を再確認する」と共同声明。11月に国連総会で歓迎する決議

2001年9月 札幌での非政府専門家会議で、モンゴルの非核地帯宣言に法的拘束力を持たせるため、核兵器保有国との条約締結を求める提案

2005年4月 メキシコで、約90カ国が参加した非核地帯条約会議

2009年3月 ロシアと中国、モンゴルがスイス・ジュネーブで3カ国条約の草案について意見交換

2009年4月 モンゴル政府がウランバートルで非核地帯国際会議を開催

(2009年6月1日朝刊掲載)

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