×

連載・特集

原爆を問う 2人の被爆科学者の軌跡 <1> 自責

■記者 森田裕美

電停で交錯した運命 炎の中に母を残して…

 旧制中学の同級生2人は、ともに原爆の惨禍に見舞われ、戦後は期せずして同じ物理学の道を歩んだ。原水爆禁止運動の先頭に立つ名古屋大名誉教授の沢田昭二(77)と、原爆放射線量の解明に力を注ぐ広島大名誉教授の葉佐井博巳(78)である。それぞれの流儀で、肉親や友人を奪った原爆の非人道性を問い続けてきた。被爆者であり科学者である自分に向き合ってきた。そんな2人の軌跡をたどる。

 久しぶりに顔を合わせ、古里を歩いた。5月下旬、広島市中区の白島地区。路面電車の白島電停にささしかかる。「当時はもうちょっと南だったね」。どちらともなくつぶやいた。

 64年前、少年だった沢田と葉佐井の運命は、ここで交錯した。

 白島国民学校(現白島小)を一緒に卒業した2人は1944年、旧制広島一中(現国泰寺高)に入学した。2年生になった1945年の夏、広島の西の郊外、地御前村(現廿日市市)にあった兵器工場に動員された。同級生たちと毎朝、白島の電停から向かった。

 だが、運命の8月6日、沢田の姿はなかった。「おなかを壊して熱が出た。欠席することを、電停にいる葉佐井君たちに、国民学校6年の弟が伝えに行ったんだ」

 原爆の爆心地から1・4キロ、電停に近い東白島の自宅で寝ていた沢田は、ピカドンの瞬間を覚えていない。気が付くと倒壊した家の下敷きになっていた。何とかはい出すと、足元で呼ぶ声がする。母が崩れた木材に挟まれ、身動きできずにいた。

 力いっぱい押し上げても、少年の力ではどうにもならない。火の手が迫ってくる。「よく勉強して立派な人間になりなさい。母さんはもういいから逃げなさい」。強い口調で促され、立ち去る覚悟を決めた。「ごめんなさい」。いまも思い出すたび、言いようのない思いで、はらわたがちぎれそうになる。

 そのころ葉佐井はすでに地御前の工場に到着していた。閃光(せんこう)を感じた。東の空に、ちぎれ雲を見た。やがて、焼けただれた負傷者が続々と運ばれてきては「自分の家が直撃弾を受けた」とだれもが口にする。広島の空は真っ赤になった。

 翌日まで待ち、惨状の爆心地近くを踏みしめながら、西白島の自宅に戻った。

 葉佐井は長い間、そんな入市被爆の体験を口にできなかったという。広島一中の他学年の生徒たちは、爆心地近くで建物疎開の作業をしていて大勢が息絶えた。一緒に工場にいた同級生の多くも親やきょうだいを失った。だが自分の家族は、自宅にいた母と妹は一命を取り留め、単身赴任で県外にいた父、疎開していたもう1人の妹も助かった。「自責の念に似た気持ち」が、口をいっそう固くさせた。

 家族との避難先で葉佐井は、1人の少年の壮絶な最期を見たという。致命的な大やけどなのに突然、軍歌を歌って逝った。「先生から習った通りの死に方だ、すごいやつだと思った。今度は自分が死ぬ番だと思った」

 すぐに終戦となる。「最後の一人まで戦えと教育された。あれは何だったのか。何を信じていいのか」。自分で見て確かめたことだけ信じようと決めた。

 沢田は、仕事に出て助かった父、電停への伝言を頼んだ弟とともに、親類を頼って広島県東部へ移った。古里に残った葉佐井との音信は、いったん途絶えた。

原爆放射線の人体影響
 被爆直後の急性影響と、数カ月たって以降の晩発影響がある。急性影響には下痢や嘔吐(おうと)、脱毛、白血球減少などの症状がある。晩発影響としては白血病を含めた各種のがん、放射線白内障などの後障害が明らかになっている。

(2009年7月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ