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連載・特集

原爆を問う 2人の被爆科学者の軌跡 <2> 転機

■記者 森田裕美

「死の灰」に危機感 学生率いて脅威を訴え

 原水爆禁止運動に半世紀以上かかわり、日本原水協代表理事も務める沢田昭二は、今もしばしば尋ねられる。「物理学者になったのは、被爆を体験したからですか」と。

 答えは「ノー」だ。

 小さいころから理科や数学が好きで、子ども向け科学雑誌をよく読んだ。素粒子物理学の発展に貢献した湯川秀樹や坂田昌一の研究を紹介する記事はとりわけ夢中になった。

 古里から離れ、福山市の誠之館高を卒業。大阪の金物問屋に勤めた。しかし、どうしても物理学の道があきらめきれず、給料をはたいて分厚い専門書を買った。独学で1951年、広島大理学部物理学科に入学した。

 被爆者が大勢いる広島に戻り、自らの体験をことさらに意識することも、声高に語ることもなかったという。

 転機は54年3月、大学3年生の終わりだった。米国が中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、広島原爆の千倍もの威力とされる水爆実験をした。静岡県のマグロ漁船、第五福竜丸の乗組員が「死の灰」を浴びた。

 危機感をおぼえた。「このままでは自分の学んでいる物理学が、人類を滅亡させてしまう」

 ちょうど学生自治会委員をしていた。「学生として何かできないか」と広島じゅうの大学に呼び掛けた。実験から2カ月後の5月に原水爆禁止広島学生協議会をつくり、実行委員長に就いた。

 その年の8月6日。平和記念公園(広島市中区)で原水爆の脅威を伝える展示をした。なお被爆の傷跡が残る中心部を仲間たちと歩き、被爆者の困窮ぶりを聞き取り、パネルにして掲げた。原爆や水爆の仕組み、放射線の原理を解説する説明板も作った。

 広島大には当時、原水爆禁止運動の理論的支柱となった森滝市郎や今堀誠二、佐久間澄らの教官がいた。彼らの思想に触れた。湯川や坂田、朝永振一郎ら物理学者が核や戦争を告発する姿にも大いに影響を受けた。

 そして、原爆の日、炎の中に置き去りにした母の言葉が耳に残っていた。「立派な人間になりなさい」。それに応えるためにも、物理学者としても、「自分には二重の責任がある」。気負わず、信念がにじむ語り口は、終生かけた運動を続ける今も一貫している。

 一方、廃虚の古里に残った葉佐井博巳。沢田より1年早い50年、同じ広島大に入った。当時、人気の学問だったという工学部電気工学科。だが卒業、就職を目前にした54年、休学を余儀なくされる。

 肺結核を患い、左肺をすべて摘出する手術を受けた。くしくもビキニ水爆実験の年だったが、沢田が加わった運動に目を向ける余裕はなかった。2年間の療養を経て復学しても、勉強の遅れを取り戻したい一心だった。

 葉佐井が原爆被害を伝える活動に励むまでに、それから20年以上の歳月が過ぎる。

原水爆禁止運動
 ビキニ水爆実験で第五福竜丸が被災し、無線長の久保山愛吉さんが犠牲になった。これを機に、核兵器や実験に反対する運動が全国規模でわき起こり、1955年8月、広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。その後、政党間の対立などで、日本原水協と原水禁国民会議に組織は分裂した。

(2009年7月3日朝刊掲載)

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