×

連載・特集

原爆を問う 2人の被爆科学者の軌跡 <4> 核抑止

■記者 森田裕美

脱却の訴え 賛同得る 体験伝える意義 再認識

 大学生で原水爆禁止運動にかかわった沢田昭二は、30代後半になってから自らの被爆体験を周囲に話し始めた。1968年、雑誌の依頼で手記を寄せたのが最初だった。科学者集団のパグウォッシュ会議が、伝える意義を気付かせてくれた。

 核戦争による人類の滅亡を警告し、科学者の結集を呼び掛けた55年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」を機に発足したパグウォッシュ会議。だがその理念は、東西冷戦という現実を前に、たちまちかすんでしまう。

 沢田の回顧によると、1958年の第2回会議ですでに「原爆とともに生きよう」との考え方が生まれ、1960年代には核抑止論を唱える学者も多かったという。

 広島大大学院に進んだ沢田は、原水爆禁止運動を率いた佐久間澄の研究室に入った。1966年に名古屋大の坂田昌一研究室に助教授として赴任する。坂田はその4年前の1962年、ノーベル物理学賞を受けた京都大教授の湯川秀樹たちと日本版パグウォッシュ会議とも言われる「科学者京都会議」を開いていた。

 沢田は、佐久間や坂田から学問的影響を受けつつ、これらの会議にかかわりを深めていく。1975年の科学者京都会議では、湯川と朝永振一郎の2人が名を連ねる「湯川・朝永宣言」への賛同署名を計画した事務局の一員に沢田もいた。

 核抑止論を批判し、そこからの脱却を訴える宣言に当初、海外参加者の反応は芳しくなかった。しかし5時間分の原爆記録フィルムを上映すると、会場の雰囲気は張りつめた。上映は朝永のアイデアだったという。

 結局、核兵器保有国である米国や英国の科学者も含め、ソ連(当時)を除いた28人全員が宣言に署名した。「核兵器の原理を知る科学者でさえ、使用されればどうなるかは理解していない」。沢田はそう痛感した。

 被爆半世紀の1995年にパグウォッシュ会議が被爆地広島で開いた大会でも、沢田は事務局に加わり、運営を支えた。参加者全員に原爆資料館を見学してもらった。こうした積み重ねにより、パグウォッシュ会議は核抑止論の束縛から逃れ、ラッセル・アインシュタイン宣言の原点に回帰していったといわれる。

 原爆の悲惨さに科学者が直接触れる意義を目の当たりにした沢田は、1997年のノルウェー・リレハンメルでのパグウォッシュ会議で自ら演壇に立った。原爆の炎の中に母を置き去りにした記憶が、つらく、鮮明によみがえる。声が詰まる。それでも事務局からの「被爆体験の証言を」との依頼に喜んで応じた。

 「被爆者一人一人の体験が、聞く人の想像力のスイッチを働かせ、原爆被害の全体像の理解につながる」。核兵器開発という人類にとって「負の歴史」を歩んだ科学。それに携わる人たちとのかかわりが、沢田の確信をはぐくんでいった。

パグウォッシュ会議
 世界の著名な科学者11人が署名した1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」を受け、57年にカナダのパグウォッシュ村で第1回会議が開かれた。その提言活動は、部分的核実験禁止条約(PTBT)や核拡散防止条約(NPT)の成立に影響を与えたとされ、1995年にノーベル平和賞を受けた。

(2009年7月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ