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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第1部 日米・親と子の手紙から <1>

■特別取材班 田城明、西本雅実

出会い あふれる喜び・期待

 広島市公文書館(半田亨館長)に、500通を超える日本語と英語の手紙が眠っていた。黄色に変色したこの手紙は、原爆で肉親を失った子供たちを援助するため、アメリカ市民が進めた精神養子運動の生の記録である。海を隔てて、手紙で結ばれた米国の精神親と広島戦災児育成所(広島市佐伯区皆賀二丁目)の子供たち。歴史の片隅に置き忘れられたかのような精神養子運動を検証するため、親子の出会いから子供たちの独立までを、古い手紙でたどってみた。

 《私たち夫婦はバーモント州に住んでいます。ノーマン・カズンズさんからの手紙であなたが私たちの養子に決まったことを知りました。あなたの写真は居間に飾りましたよ=主婦・25年2月19日付》

 カズンズ氏の精神養子運動の呼びかけにこたえ、米国内では24年10月までに150人が精神親になりたいと申し出た。広島戦災児育成所は、人所児の90%に当たる71人のプロフィルと写真を送り、カズンズ氏が「親」「子」を仲介。翌年2月ごろには親からの手紙が届き始めた。親たちは、自国が落とした原爆で実の親を失った子供の支えになろうと、アメリカ人らしい率直さで語りかけた。

 《友人に写真を見せて君のことを自慢しています。どんなスポーツが好きかね。英語は分かるかね。私たちは決して金持ちではないけど、君が希望するものは送ってあげられると思うよ=写真店経営者・25年3月19日付》

 カリフォルニア州から13歳の少年にあてた手紙である。またテネシー州の若い母親は15歳の少女にこう呼びかけた。

 《こんにちは! 私があなたの新しい母親よ。私は25歳で主人は27歳の建築家。日本についてはあまり知らないので、たくさん手紙を書いてね=主婦・25年4月》

 海の向こうから届いた初めての手紙。翻訳文を読んだ子供は、アメリカ人の「親」との出会いをどう受け止めただろう。返信を読むと、喜びと期待が、たどたどしい文面にあふれている。14歳の少女は次のように書いた。

 《手紙を見ますと、私にはお兄さんやお姉さんができたのですね。どんな顔なのか知りたいので、急いで写真を送って下さい=中学2年・25年》

 13歳の少女と8歳の少年は、ミネソタ州とカリフォルニア州のそれぞれの父母にこう語りかけた。

   《親愛なるお父さん、お母さん。手紙をいただいてとても幸せです。学校で英語を一生懸命勉強して、早く英語で手紙を書けるようがんばります。お手紙、何度も下さいね=中学2年・25年3月28日付》

 《ぼくはしっかりべんきょうしてえらい人になります。あめりかへいくのをたのしみにしています=小学2年・25年》

 原爆の悲劇の中から生まれた新しい親子のつながり。初めて交わした手紙には、ことばや国籍の違いを超えて出会った親と子の喜びがあふれている。


ノーマン・カズンズ氏
 コロンビア大学師範科卒。17年「土曜文芸評論」主筆。20年8月、同誌上で核時代をいち早く警告、世界政府を呼びかける。現在はカリフォルニア大医学部教授。73歳。

広島戦災児育成所
 20年12月、山下義信、禎子夫妻が原爆孤児養育のため開所。28年、広島市に移管、市戦災児育成所となる。35年に市童心園と改称され、48年から市立皆賀授産所となる。

(1988年7月13日朝刊掲載)

          

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