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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第1部 日米・親と子の手紙から <2>

■特別取材班 田城明、西本雅実

痛み しょく罪意識濃く

 原爆投下はやむを得なかった…。こんな受け止め方が支配的だった米国で、精神親となり、原爆孤児に手を差し伸べた人々はどのような思いを抱いていたのだろうか。広島戦災児育成所の子供たちにあてた親の文面には、「加害者」としての良心の呵責(かしゃく)としょく罪意識が色濃くにじむ。

 《政府が、広島の町を破壊し尽くし、君のような孤児をたくさん生み出したのは本当に申し訳ない。われわれは政府のすることを抑える力は必ずしも持ってはいない。とにかく、私としては喜んで君の力になるつもりだ=牧師・25年4月25日付》

 また、ユダヤ系ドイツ人と見られる女性と、一人息子を亡くしたばかりの教師の妻はそれぞれの子供にこう語りかけた。

 《夫と私はヒトラーの下から逃れてこの国へ来ましたが、年とっていたので新しい土地で生活の根を下ろすのに苦労しました。2人とも大学で働いています。私たちより、もっとつらい苦しみを体験したあなたの力になりたいのです=25日2月10日付》

 《私たちが一番望んでいるのは2度と戦争が起こらないことです。あなたの親になったのも、この願いを表す1つの道だと信じたからです=主婦・25年6月12日付》

 戦争を憎み、幼くして原爆の犠牲者になった子供たちの支えになろう。精神親の名乗り手には、キリスト教に根ざす人道主義と、「ノー・モア・ヒロシマズ」の強い思いが底流にあった。中にはグループで「親」になった人たちもいた。

 《40人もの母親が1度にできて、驚きましたか。先週送った小包は母たちからの贈り物です。これからも、あなたのそばにいたいわ=婦人クラブ会長・25年12月11日付》

 精神養子の子供たちは手紙を交わすに従い、打ち解けてゆく。広島県佐伯郡砂谷村(現・佐伯郡湯来町)に疎開していた少年は、「あの日」を新しい父に伝えた。

 《その日の朝8時ごろ、急に空が黒くなったかと思うと、多くの人が村まで逃げてこられました。僕のお母さんはと心配しましたが、こられませんでした。集団疎開が解散になりました。待てど暮らせどこぬ母は、再び会うことができませんでした=中学3年26年4月11日付》

 子供たちは学校や育成所での行事や遊びを明るく書き留め、豊かな国から届いた衣服、食糧、小切手に感謝の言葉をつづる。14歳の少女の手紙には、まだ見ぬ「父母」を慕い、心を託して行く思いが行間から透けて見える。

 《私がいつも楽しみにしている物は、ただお母さん、お父さんからのお手紙です。チョコレートやお菓子は少し楽しいです。下さった手紙はさみしい時また寝る前に読み返しています。お母さんからいただいた温かい手紙がいつもやさしくつつんで下さるので、私はたいへん幸福です=中学2年・26年1月19日付》


ノー・モア・ヒロシマズ
 昭和23年、米国のバプテスト教会を中心に起こり「8月6日を世界平和デーとする」ことを呼びかけた。この年の平和祭式典でも、スローガンとして掲げられた。

(1988年7月14日朝刊掲載)

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