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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第1部 日米・親と子の手紙から <7>

■特別取材班 田城明、西本雅実

試練 食べるのがやっと

 就職、進学…。肉親を持たない子供たちの心は、揺らいだ。就職の支度は?進学するための学資は?

 《私はこの4月で中学3年になります。卒業したらどうしようかと今から心配しています。私の志望は音楽家です。文学も好きです。どの道を選ぶのがいいか。お父さん、お母さんの考えを教えて下さい=中学2年・26年2月》

 2カ月後、ニューヨーク州の母から届いた返事は、娘を励ましながらも現実の厳しさを説いていた。

 《若いあたなには、いろんな可能性があります。でも、音楽にしても文学にしても、その道で成功するには特別な才能と強い意志、それに長い努力が必要なのよ=主婦・26年4月14日付》

 1年後、中学を卒業したその少女に、精神親からの学資援助のめどはなかった。2カ月余り、広島戦災児育成所の手伝いをしながら「今はもう社会に出る決心です」と父母に書き送った。高校進学率が20%にも満たない時代。15歳の少女が追い求めた音楽家の夢はついえた。彼女より1年早く中学を出た少年は、就職先からノースカロライナ州の父母にあてて次のように書いた。

 《いま、九州の油会社で働いています。1日中張り切って仕事をしています。夜は少しの時間をさいて通信教育で勉強しています。科目は英語、国語、数学、社会などいろいろあります。=会社員26年8月18日付》

 中学を卒業して就職の道を選んだ子供たちにとって、自活への早道は技術を身につけることだった。大工、理・美容、洋裁…。見習いとしての修行が続く。食べるのがやっとだった。一方、高校、大学へと進んだ少数の子供も、学資稼ぎに追われた。彼らもまた、明日よりも今日を生きることに懸命だった。いきおい精神親と交わす手紙の数も減っていった。

 28年1月、育成所は広島市へ移管。手紙の翻訳は市渉外課が引き継いだが、実社会へ出た子供にとっては、身近に翻訳者を見つけることは難しかった。育成所時代はさほど意識しなかった「言葉の壁」。これも精神親と子供のつながりを疎遠にする一因だった。

 《最近は広島の養子との文通が途絶えがちなため、米国の精神親の間に不満の声が上がっている。孤児たちが成人して施設を出ているのにずるずると今まで通りで、所在や関係があいまいである。善処されたい=29年10月4日付》

 米国ヒロシマ・ピース・センター協力会から浜井信三広島市長あてに届いた苦情の手紙が、当時の精神養子運動の実情を物語る。

 《息子よ、人間は大きくなるにつれ、いろいろな苦しみに出合います。だれも苦しみや悩みのない生活をすることはできません。でも、男らしく苦難に立ち向かって強く生きなさい。私がいつもそばにいることを忘れないでね=音楽教師・32年4月30日付》

 悩みを打ち明ける20歳の息子に励ましの言葉をかける年配の母親。この親子のように、その後も交信が続いた例もあるが、青年期を迎えた彼らが社会の試練に直面したのと同じ時期、精神養子運動そのものも、大きな転機に立たされた。


30年1月現在の進学状況
 精神親の資金援助で高校在学中=2人▽洋裁学校など専門校=4人▽アルバイトで自活しながら高校在学=1人▽予備校生=1人▽大学生=4人(市戦災児育成所調べ)

(1988年7月20日朝刊掲載)

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