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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <2>

■編集委員 西本雅実

朝鮮 日本の統治時代に育つ

 生まれたのは大阪市住吉区。おやじの平岡忠雄は神石町(現広島県神石高原町)、おふくろ千歳は古田町(広島市西区)の出身で大阪に出て運送店を営んだ。それが(1934年の)室戸台風で店をやられ、おやじは僕からみて母方のじいさんの事業を手伝うため朝鮮に渡る。僕が小学校4年生になる時に家族も大阪から続いた。住んだのは(日本海に面する)北朝鮮・先鋒、当時は雄基と呼ばれていた港町です。人口は日本人を入れて3万人くらいいた。

 日本が1910年に大韓帝国を併合して植民地支配した朝鮮で、中国と旧ソ連国境近くの雄基は、優良な石炭や森林資源が背後地にあり、敦賀港などとも航路で結ばれた交易拠点でもあった

 じいさんの前田節三は「親和鉱業」「親和木材」と手広く事業をやり、おやじは石炭部門を受け持った。雄基小に1年通い、5年生になる時に己斐(西区)にいた母の妹夫婦宅に預けられた。そこの娘とは兄と妹のように育った。核兵器の違法性をめぐり国際司法裁判所で(1995年に)陳述した際に触れた被爆死したいとことは、彼女のことです。

 本川小に6年の2学期まで通ったところで呼び戻された。おやじの会社が発展して今のソウルに移り、(現在は取り壊された)西大門の近くに家族も住んでいた。それで京城中を受験して入った。

 日本が率いる朝鮮総督府は、韓国併合により首都の漢城を「京城」と改称。日本敗戦による解放後の1945年10月にソウルとなる

 京城中時代は正直嫌だった。教師から理由なく殴られ、級友にも鼻持ちならない優越感の持ち主がいた。夏休みに日本へ帰り戻ってくると、馬車を引いていたのが日本人だったと驚いて話題にする。

 外地にいても階層社会があってね。朝鮮総督府の役人、財閥系の社員だとか。そうした子弟は日本人は手を汚さない仕事をするのが当たり前と思っていた。ただ、これは年代の違いがあって、2、3年上の連中はわりに自由主義的な空気に触れていた。僕らの年代は戦争中の軍国主義一本やりの教育。見方が極端に狭かった。

 僕はせいぜい文学書を読むくらい。朝鮮人がどんな気持ちなのか全く気づかず、「三・一運動」(1919年に起きた独立運動)を知ったのも戦後。顧みれば恥ずかしいですよね。

(2009年9月30日朝刊掲載)

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