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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <4> 

■編集委員 西本雅実

引き揚げ 家屋「接収」で母の里へ

 1945(昭和20)年8月15日を、学徒動員されていた興南(北朝鮮咸興市)の化学工場で迎えた

 8月22日だったかな。無蓋(むがい)貨車に乗って2日がかりでソウルに着き、城大(京城帝大予科)まで戻った。朝鮮人の下級生たちが「先輩ご苦労さまでした。学校はわれわれが接収しました」という。僕らは「あ、そうか」と受け止め、解散となった。

 帰った西大門の家にはだれもいない。近所に住むおじさんが出てきて「私がこの家をもらいました」という。そこで南山ふもとの梨泰院へ向かった。空襲に備えて疎開先の家が1軒あった。両親や弟はそこにいた。「接収」はもうしょうがないという感じだった。

 日本人社会では当初、居留を望む者が多かったが、南朝鮮に進駐して9月20日に開設した米軍政庁が送還政策を発表。約40万人が引き揚げていく

 両親、弟4人との7人で釜山から仙崎(長門市)に着いたのは枕崎台風(9月17日)の10日後くらい。下関は機雷が浮いていて船は入れなかった。広島が原爆にやられたのは興南で聞いていたが、被害の実態は分からなかった。広島駅に降りてびっくりした。沖合の似島が見えたんだから。僕の落ち着き先は古田町(西区)の母の里。じいさんが家屋敷や田畑を残していた。

 食うのが精いっぱいだったが、広島高校(50年閉校。現広島大)の編入試験を受け、城大からの惰性で理乙に入った。46年から旧大竹潜水学校で授業が始まり、理科は翌年に皆実町(南区)の校舎に戻った。あの雑賀忠義さん(広高教授。52年建立の原爆慰霊碑の碑文作成者)が僕らのクラス担任だった。レーニンの著作なども読み始めた。社会科学的なことを全く知らず、城大時代にバカにされたからね。

 (65年の)国交回復直後から韓国は数えきれないほど訪ねている。昔ここに住んでいたとなると、植民地支配の手先とみる人もいれば、親近感を寄せる人もいる。医者になった城大の友人は「おれの青春はこんな時代だった」と、ソウルの自宅に日本の軍歌全集を集めていた。民族的な誇りを奪われたからですよ。だから朝鮮を「懐かしい」というのは、ためらいがある。

 ただ、この春も韓国でレンギョウとツツジが咲く光景を見てきた。山河への郷愁はものすごくある。

(2009年10月2日朝刊掲載)

 

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