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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <11> 

■編集委員 西本雅実

立候補 市政の変革を訴え当選

 中国新聞の編集局長を1975(昭和50)年から7年務め、中国放送(RCC)へ移り86年社長に就く。思いもしなかった転身を求められる

 RCC行きは、新聞社から誰かを出さなくてはという状況が当時あり、白羽の矢が立った。組合員の昇進問題を和解で解決し、経営の負担になっていた土地を売却した。しかし放送の現場は知らない。だから僕は放送人とはいえません。

 バブル経済のさなかなのに広島への広告投下量は減っていた。(94年に)アジア競技大会開催を控えた都市力の低下が気になった。それもあり地域おこしの活動に力を入れた。広島経済同友会でまちづくりを提言したり、加藤新さん(中区の並木通り商店街の振興者。2005年に死去)らと広島城を舞台に「田舎を飲み喰い語る会」を続けたりした。市長選なんて思ってもいなかった。

 4期連続で率いた荒木武市長=当時(74)=は90年8月に翌年の市長選に出ないことを表明、後継に当時の広島県医師会長を推す 実は立候補を最初に持ち掛けてきたのは、浜本万三さん(当時、社会党参院議員。昨年死去)。90年3月に会社にきた。その後も社会党関係者が要請してきたが、すべて断った。

 ところが秋に入り、広島高校の先輩である藤井明さん(マツダ専務)が「平岡やれ」と各方面に根回しに動く。金はない度胸もない。ためらうと、橋口収さん(広島商工会議所会頭。05年死去)から「まちづくりを唱えるだけなのか。陣容は整える」と迫られた。マスコミの人間はそんなものと開き直れない、その辺が僕の気の弱さ。女房は大反対したが11月の立候補表明となったわけです。

 広島の活力への危機感という流れがあり、たまたま僕が必要とされたんだと思う。だけど勝てるとは思えんかった。自民党は分裂して一部が支持に回ってくれたが、相手候補は先行していた。「活力ある広島をつくろう」と訴えて車を走らせても反応はほとんどない。それが投票日の1週間くらい前かな、主婦が夕方でも家から出てくるし、病院の看護師さんも窓から手を振ってくれる。市民は市政が変わることを本当に期待している、これはいけるなと思った。

 新人7人が立った91年2月の市長選で過去最高の約27万6千票を得て当選する

(2009年10月16日朝刊掲載)

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