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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <14> 

■編集委員 西本雅実

アジア大会 市民の交流活動芽吹く

 42の国と地域が参加した1994年10月の第12回広島アジア競技大会。首都以外で初の開催にはさまざまな駆け引きがあった

 ひょっとしたら大会は失敗するかも分からんという話を聞いていた。市長に(1991年)就くと、日本体協からきていた大会組織委員会の事務総長が辞めた。急きょ筆頭助役に兼務させた。前市長時代の幹部は代えろと外からはしきりに言われたが、しなかった。大会の成功に向け、職員をまとめる能吏は必要だと思った。

 僕は大会PRのバッジを着けた。すると職員も着け始めた。意識改革の第一歩です。次は、参加する国と地域を応援する取り組みを小学校でしたらどうかと幹部会で話した。親を引っ張り出せれば、市民の関心も盛り上がる。だが教育長は困った顔をした。組合との問題があり学校は乗ってこないという。

 で、社会教育課に振り、返ってきたのが当時61の公民館が分担する「一館一国・地域応援事業」。地元住民らが参加国・地域の歴史や文化も事前に学習する事業です。(市中央公民館主幹だった)上田義文さんのアイデアでした。

 広島が(1984年に)開催地に立候補したのは、招致を機に都市基盤の整備推進を狙ったから。その考えは間違ってはいないが、平和を訴える広島で開く意味を僕は強く意識した。だから天皇陛下のご出席は欠かせないと思い、実現にこだわった。

 天皇、皇后両陛下は1994年10月に訪欧が決まり、外務省は春から「ご出席は困難」と示唆していた

 中国や韓国はメンツを重んじる。陛下のご出席がなければ、ほかの国も自分たちは欧州より格下なのか、と怒るだろう。平和に寄与する祭典が国際的な論争に巻き込まれる。中学の後輩だった成田豊さん(当時、電通社長)を通じ、鎌倉節(さだめ)宮内庁次長(後に長官)に会い、僕の考えを説明した。二人は幼なじみなんです。鎌倉さんは分かってくれた。両陛下はハードなスケジュールに応じてこられた(その後に関西空港から出発)。

 「一館一国・地域」を契機とした市民の活動は大会後、相手国の事情や地元の熱意から薄れたところも多い。だけど、カザフスタンの核被害者支援、カンボジアでの「ひろしまハウス」建設、広島オマーン友好協会…。アジアを知り、広島の思いを伝え交流する市民がいる。確かな成果だと思います。

(2009年10月21日朝刊掲載)

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