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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <15> 

■編集委員 西本雅実

ハーグへ 政府の圧力はね返して  被爆50年の1995年、核兵器使用の違法性をめぐる審理が国際司法裁判所(ICJ)で進んでいた  広島市長としてオランダ・ハーグで陳述するまでには曲折があった。ICJが関係国にまず1994年6月まで求めた陳述書提出に、政府は明確な考えを示さなかった。それならと、ICJに陳述機会を求める書簡を本島等長崎市長と連名で送ったけれど、(10月に)「国家または国際機関でなければ陳述できない」とする回答が届いた。

 その後だと思う。南太平洋のナウル共和国が核兵器使用は違法と陳述するので出てほしいと言ってきた。広島市長がナウルから出るのは筋が違うので断ったが、日本政府が違法と言わないのであれば出てもいいと伝えた。被爆50年8月6日の平和宣言は、政府がその前(6月に)ICJに提出した「核兵器使用は人道主義の精神に合致しない」とした、ぼやかした陳述書に対する異議申し立てでもあった。

 宣言で「原子爆弾は明らかに国際法に違反する非人道兵器」と訴えた。政府はICJでの口頭陳述が迫った9月、広島・長崎両市長を証人申請する  あえて申請したのは、外務省がナウルからの話を聞きつけたんだろう。国際法違反と主張する国はほかにもあった。他国から出て陳述されたら政府のメンツはつぶれる。それでしたんだと思う。

 陳述は政府の趣旨に沿ってほしいという圧力、僕は要請と受け流したがありました。陳述内容を市長室で打ち合わせしていたら、河野洋平さん(当時、外相)が電話をよこした。私の考えは平和宣言でご存じでしょうと答えたら、「だからかけたんだ」という。できませんと言って終わった。外務官僚に泣きつかれ、一応かけたという感じだった。

 だが長崎は相当なプレッシャーがあったようだ。

 伊藤一長さんは自民党県議から(1995年4月の市長選で)本島さんを批判して当選した。いろんなルートから圧力をかけられ、かなり揺れ動いた。彼も早稲田出身なので僕を「先輩」と呼び親しみを覚えてくれたので、(11月初めの)出発前に被爆地が足並みをそろえないとダメだと言った。長崎市長として核兵器廃絶を訴える使命をやはり感じたんでしょうね。腹をくくった。ハーグでの陳述からは広島の先を行く動きも始めた。それだけに(一昨年)凶弾に倒れたのは本当に残念です。

(2009年10月22日朝刊掲載)

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