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連載・特集

『生きて』 前広島市長 平岡敬さん <18> 

■編集委員 西本雅実

W杯屋根架け 新球場建設にらみ断念

 広島アジア競技大会への膨大な投資から2期目の市政運営は厳しいかじ取りとなる

 1997年に「行財政改革推進本部」を設け、財政健全化に乗り出した。一方で、提唱した「まちづくりボランティア20万人計画」を推し進めた。原爆の廃虚から再生を果たした人間が持つ力とかエネルギーが光り輝く街にしたい。市民の自発的な活動と協働がますます必要になると考えたからです。

 財政の逼迫(ひっぱく)から、事業はソフト面で知恵を絞らざるを得ない。NHK大河ドラマの誘致を県や経済界とやり(1997年放送の)「毛利元就」に結びついた。女性観光客を呼び込もうと「ひろしまの歌」づくりを2度手掛け、歌手も頑張ってくれたがどうしてもはやらんかった。

 都市基盤整備でいえば、今春にできた市民球場の用地、貨物ヤード跡地を国鉄清算事業団から(1998年3月に)約110億円で先行取得した。あれは、マスコミからもたたかれたワールドカップ(W杯)の屋根架け問題と実は絡んでいたんです。

  日韓共催によるサッカーの2002年W杯の国内開催地選定で1996年、有力視された広島はビッグアーチのバックスタンドに屋根を設けないことから外れた

 明かせば設計図はあったし、経費は約140億円と踏んでいた。だがW杯は最初は日本単独を狙ったのが共催となり、広島が選定されても開催は3試合。費用対効果に見合わないので架設をやめた。それだけの金を使うなら、海田町との合併を進めるため東部地区への投資に充てようと考えた。

 老朽化した(旧)市民球場の建て替えも念頭にあった。現有地でとなると建設中は他都市での試合となり、ファンも広島も困る。ヤード跡地に球場をつくれば東部の起爆剤になるし、周辺地価が上がれば市の財政も潤う。松田耕平さん(広島東洋カープのオーナー。2002年死去)とは随分話し合いました。ドーム球場建設を議会にかけるとまで言ったが、うまくまとまらなかった。

 2期目の被爆50周年に基町高や矢野西小などを選んで「ピース&クリエイト」(設計に著名建築家を起用)事業も始めた。100周年まで続ければ魅力ある景観づくりになると考えたんだけれど…。でもまあ、都市づくりは市長一代でできるはずもない。だから市民の主体的な力と参画が大切なんです。

(2009年10月28日朝刊掲載)

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