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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 今も「わが子」気遣う米国の親

■ニューヨーク支局 川本一之記者

 精神養子運動。それは原爆を落とした国・アメリカの「市民」が、償いのため自らの良心に従って、ヒロシマの子に差し伸べた愛の手であった。文芸評論誌の、たった1度の呼びかけにこたえて「親」になった人は300人前後。広島市公文書館の資料を頼りに、米国内で精神親の消息を追った。そして3人の市民にインタビューした。原爆孤児たちを物心両面から支えたその人たちは、年老いながらも、成長したヒロシマの子供を気遣い、「親」の誇りを胸に、静かに生きていた。また運動を提唱したノーマン・カズンズ氏は、提唱に至る経緯などを淡々と話した。

3人の現状を訪ねて

エラ・エミリーさん(80)=ミネアポリス
米に娘呼べず心残り「2児の母」の消息聞き涙

 今年初め、脳卒中に見舞われ左半身がまひしたエラ・エミリーさん(80)は、ミネソタ州ミネアポリス郊外の高齢者用アパートで、ひっそりと暮らしている。「ヒロシマの娘(48)から便りが途絶えています。心配でね。一目会いたいのです」。車イスのエミリーさんは、細い声でこう言った。

 「私はこうして1人で暮らしていますが、米国に子供が3人、孫が14人、ひ孫が12人、それにヒロシマの養女一家でしょ。大家族なんですよ」

 日本にいる友人からの手紙で、戦後の様子はうすうす知っていた。それに「原爆投下は不必要だった」との思いもあった。だから、精神養子の呼びかけに、9年前に亡くなった夫のケイスさん=当時(75)=と、すぐに応じた。

 「彼女が何とか立派に成人してくれるように-と、養育資金や衣服を送りました。でも彼女が学校を出てからは、文通も途絶えてね」。連載「ヒロシマ精神養子」第1部でも触れたように、子供たちが社会に出て翻訳者を得にくくなったことが、交流が疎遠になった原因のようだ。

 エミリーさんが悔やむのは、「娘を米国に呼ぼう」と思いながら果たせなかったこと。「あのころ、私たちの3人の子が大学に通っていました。ヒロシマの娘も心待ちにしていたと思いますが、経済的負担が重くて…」

 「その養女も2人の子供に恵まれ、うち1人は今年結婚しました」-記者がそう伝えるとエミリーさんは涙を浮かべ、部屋のバイオリンを見やった。かつてバイオリン奏者として活躍。「1度、ヒロシマの娘に聞かせたかった」。そう言って記者に右手を差し伸べた。

グレース・メイヤーさん=ニューヨーク
交流通じ人生豊かに 原爆投下の罪悪感ぬぐう

 ニューヨーク近代美術館。摩天楼の一角にある、この重厚な建物が、広島市安佐南区で理容院を経営する森島隆さん(49)の精神親、グレース・メイヤーさんの職場だ。大きな柄のワンピース姿で現れたメイヤーさんは「女性に年齢を聞くのは米国ではご法度よ」とウインクした。

 「私ね、ラジオで広島への原爆投下を聞いた時、全身に寒けが走ったの。『ああ、米国は世界に顔向けできないことをした』と」

 罪悪感をぬぐい切れないまま4年が過ぎた。「広島へ行ってきたという、いとこのノーマン・カズンズが訪ねて来て、精神養子運動の話をしたの。これだ!と思ったわ」

 翌年から森島さんと交流が始まった。誕生日やクリスマスのプレゼント、むろん養育費も。「タカシへの援助はあまり十分ではなかったの。もし彼が医者や弁護士になるなら、援助するつもりだったけど、彼は早く技術を身につけて独立したかったのね」

 送金をやめた後も交流は続いた。国連本部ビルに近いメイヤーさんのアパートには、2年前、森島さんが送った羽子板が飾ってある。「私は結婚しなかったけど、タカシのほかにも日本とネパールに養子がいるの。3人の子供との出会いが私の人生を豊かにしてくれたわ」

 メイヤーさんは別れ際に「ニューヨークと日本は近くなったし、一度タカシに会いたいわ」と言った。

ウィリアム・ウルフさん(68)=ラグナビーチ
訪日の度「弟」と親交 亡母に代わり激励続ける

 太平洋を見下ろすロサンゼルス南部、ラグナビーチの高台に住むコーネル大学名誉教授ウィリアム・ウルフさん(68)。「この海の向こうに義母が精神養子縁組を結んだエイ君がいます。彼はウルフ家の一員。私の弟です」。きっぱりとした口調だ。

 ウルフさんが「エイ君」と呼ぶ三谷栄治さん(53)は東京都三鷹市に住む警備員。ウルフ家には、三谷さんから送ってきた一家の宮参りのカラー写真が飾ってあった。

 ウルフ一家と三谷さんの交流は昭和25年に始まった。ウルフさんの義母、サリー・ピーターズさんが精神親になって以来、母から娘、娘から夫のウルフさんへと、38年間、2代にわたり3人が受け継いできた。

 「義母がエイ君に会いに広島へ行った時『別れ際にエイジが泣いて手を離さなかった』と言ってました。『あの子には私が必要なのよ』と繰り返して…」。広島訪問から2年後、昭和30年に「もう一度あの子に会いたい」と事ある度に繰り返しながらピーターズさんは他界した。

 「代わって妻のナンシーがエイ君を励まし続けたんですが、彼女も乳がんで亡くなりましてね。それで私が彼の兄に…」

 ウルフさんは米国経営学会長も務めた経営学者。これまでに3回、日本を訪れ、その度に三谷さんと会った。

 「私たち3人が、エイ君の成長にどれだけ力になれたかはよく分かりません。でも、米国の片隅からのメッセージが広島の市民に届き、私たちの気持ちの一端は理解されたのではないでしょうか。それが、今日の両国の友好の礎の一つになっていると信じます」

 ウルフさんの家の近くで宝石店を営んでいる三男のリチャードさんも「エイ君はうちの家族」と言った。

 交流は4人目に引き継がれようとしている。

 
提唱者のノーマン・カズンズ氏に聞く

原爆孤児の姿に衝撃 政府の過ち、市民が償い

 精神養子運動を提唱したノーマン・カズンズ氏(73)はロサンゼルス市郊外の高級住宅街、ビバリーヒルズに住む。7月初旬、カリフォルニア大医学部教授の肩書を持つ同氏を、研究室に訪ねた。

 -精神養子運動のきっかけは何だったのですか。
 原爆投下から4年たった8月に広島を訪れました。当時のマッカーサー連合軍最高司令官と東京で会見したのがきっかけでした。マッカーサーは「広島の対米感情が好転したかどうか気掛かりだ」と言いましてね。私自身も広島のことがずっと頭の中にありましたから…。

 -当時の広島をどうごらんになりましたか。
 しばらく、広島にいてあちこち歩きました。最も衝撃を受けたのが郊外にあった広島戦災児育成所でした。あの原爆が、この子たちの親を奪ったと思うと居たたまれなくて。「人類はとんでもない時代に足を踏み入れた」と実感しました。

 -それで精神養子運動を思い立たれたのですか。
 そう。この都市に対して米国人の自分にできることは何だろうか、と。精神養子の構想は、広島滞在中に固まっていました。友人に構想を打ち明けたら、非常に感激してくれて、それに自信を得て「土曜文芸評論」に「4年後のヒロシマ」を書いて精神親になろうと呼びかけたわけです。

 -反響はどうでした。
 びっくりするほどの反響でした。「自分にできることはないか」「何とか子供を救ってやりたい」と。子供たちの「親」はすぐにできました。孤児が千人いても2千人いても、親になる米国市民は十分にいただろうと思います。約10年間の送金総額は5万5千ドル(当時2千万円)を超えたと記憶しています。

 -子供たちの救済になぜ、それほどの反響があったのでしょうか。
 米国では、政府の行為による責任は政府がとるのが原則です。しかし、子供たちは日々成長しており、政府と議論している余裕はなかった。政府が犯した過ちに対する市民の償いの行動、ということでしょうか。

 -あなた自身、原爆投下をどう考えましたか。
 当時私は、原爆をいきなり市民の頭上に落とさなくても、どこか無人島で爆発させて威力を示し、降伏を迫るなど別の道があったはず、と考えました。そうすれば犠牲者も出ず、その後、米国市民が良心の呵責(かしゃく)を覚えることもなかったのです。

 -昨年夏、広島を訪問されて子供たちと再会されましたが、どんな思いでしたか。
 立派に成長して家庭を築いている一人一人の姿に「来てよかった」と思いました。39年前、私自身が書いた文章(注=精神養子運動の呼びかけ)の答えを見た思いでした。

 -あなたにとって精神養子運動とは何だったのでしょう。
 人間として、私の生涯をかけた仕事です。原爆乙女たちのケロイド治療とともに、私の誇りです。


運動を支えた人 

スー・グリーンさん(83)=ウィネスビル

 「ヒロシマ・ピース・センター協力会」の事務局長として精神養子運動を支えたマービン・グリーンさん=当時(68)=6年前、亡くなっていた。未亡人のスー・グリーンさん(83)は、ノースカロライナ州ウィネスビルの森の中で静かに余生を送っている。

 「古い話で記憶は定かではないけど…」と言いながら、グリーンさんは、牧師だった夫が精神養子運動にかかわった思い出を語ってくれた。「広島には、戦前、ジョージア州エモリー大学で一緒に神学を学んだ友人の谷本清牧師(故人)がいました。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』で消息を知って、手伝うことはないか、と手紙を書いたんです」

 谷本牧師からの返事は「原爆で親や夫を失った子供や女性の救援をあおぐため渡米したい」というものだった。昭和23年10月、谷本牧師はグリーンさんの家に泊まり、各地でヒロシマの惨状を訴えた。それが「ヒロシマ・ピース・センター協力会」につながった。

 「活動資金づくり、広島との連絡など苦労の連続でした。でも主人は『これがボクの仕事だよ』と、笑顔を忘れませんでした」

 舞台裏で精神養子運動を支えたグリーン夫妻。「私たちの運動は、のちにベトナムの子供たちの救援などに引き継がれました。夫の遺志は今も生きていると思います」

(1988年7月24日朝刊掲載)

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