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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <2> 

■特別取材班 田城明、西本雅実

家族 掛け替えのない宝

 父薫(40)、母タエ(35)、長女道子(13)、二女栄(12)、三女哲子(7つ)、四女律子(4つ)、五女サチ子(3つ)、三男軍次(1つ)。一発の原子爆弾で、矢野敬裕さん(52)=札幌市南区=は家族全員を失った。

 爆心地の旧広島市中島新町に8人兄弟の二男として生まれた。「あの日」。一家は、家屋の強制疎開で移った市役所そばで被爆。父と長女は即死だった。傷つきながらも母は残った5人の子供を連れ、学童疎開先の県北、双三郡三良坂町の忠魂寺に敬裕さんを迎えに来た。「これからはお前が戸主。しっかり頼むよ」と母は言った。「忘れもしません。8月22日でした」

 9歳の少年は、一家を率いて瀬戸内に浮かぶ母の実家、下蒲刈島へ。そこで母、姉、弟が次々に亡くなり、秋祭りの朝、最後に3歳の妹をみとった。「もう悲しいという感情も沸いてこなかった…」。天涯孤独の身になった思いを、そう振り返る。

 21年の平和復興市民大会。広島戦災児育成所の子供が出席したのをニュース写真で見た。幼いころ一緒に遊んだ友が写っていた。「あそこに行けば、仲間がいる」。村役場の人に手続きを頼みカバン1つで島を出た。

 陸上自衛隊第11師団。偵察隊で3尉を務める矢野さんは「アメリカの家族」についての記憶は薄れていた。持参した精神親との往復書簡の写しで、あの当時が1つ1つよみがえる。

 「そう、ノースカロライナの家具商でした。姓はウォール。マットさんとエリザベスさんという夫婦で…」。傍らの妻栄子さん(52)が手紙の写しをのぞき込んだ。「あら、私たちの結婚のことも書いてるじゃない」

 昆虫採集や山歩きが好きな矢野少年は、率直な気持ちで「お父さん、お母さん」と書いた。「自分のことを気にかけてくれる人がいる。そりゃうれしかったなあ」。セーター、ボール、カメラ…。一つ一つが、少年の心に「家族」とか「家庭」という意識を定着させていった。

 中学を出ると、単身で福岡県内の菜種油工場で3年間を過ごす。「職場で家族のことを聞かれてね。素直に答えると同情されましたよ」。哀れみを受けるのは煩わしい。「身の上を気にせずにすむところは、と考えたら、自衛隊があった」。29年、自衛隊の1期生として入隊した。

 入隊の時、提出した身上調書の家族欄は空欄。「自分は一人なんだ」と改めてかみしめた孤独。アメリカの家族に手紙を書いても、翻訳してくれる人は身近にいなかった。入隊2年目、厚生課にいたおない年の女性を見染めた。

 「定期便と冷やかされていました」と栄子さん。言葉の壁が立ちはだかる家族に代わって、転勤で別府の実家に戻った栄子さんとの間で4年間、週2通の手紙を交わす。そして35年結婚。裕美さん(26)、金也さん(23)と2児の父親となった。

 「5年間のつもりで」と転任した北海道での生活も22年目。その間、官舎には1度も入らなかった。「他人に気がねせず、掛け替えのない家族との時間を大切にしたい」との思いからである。「物はなくても生きて行けるけど、愛情を交わす人がいなければ生きて行けないんじゃないですか」。栄子さんもうなずく。

 「そうだ、あれだけは今もある」。思い出したように、1冊の古ぼけたアルバムを持ち出した。赤い表紙をめくると、ウォール家の人たちがほほ笑んでいた。「やっぱり、家族水入らずというのはいいなあ」

(1988年7月25日朝刊掲載)

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