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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <6>

■特別取材班 田城明、西本雅実

励まし 苦しい時を耐える

 《理容の見習期間を終え、新しい職を見つけることができて本当におめでとう。新たな環境に立ち向かっていくのは張り合いのあることですね=34年5月24日付》

 米国東部ニューハンプシャー州に住む精神親、グレース・メサーブさんは青年期を迎えた広島の子供、村岡治さんに励ましの手紙を送った。当時22歳の村岡さんも今では51歳。理容師として広島市南区南蟹屋町一丁目に住居兼用の店を構え、妻、娘3人と平穏な日々を送る。

 「ささやかだけど今の自分があるのはメサーブさんのおかげです。あのころは職についてもすぐ辞めて、また職を探すという、浮草のような生活でしたから」

 職を転々としていたころ、独身で音楽教師だったメサーブさんからは、あまり返事を書かない息子を気遣って、ヒロシマ・ピース・センターを通じて毎月1回、手紙が届いた。

 《給料が安くて、勤務時間も長いというのなら転職も仕方ないでしょう。今度はどんな仕事をしているのか隠さず教えて下さい。苦しい時も自分を見失わないよう、しっかりね=35年10月25日付》

 励ましの手紙が少しずつ青年の心を動かす。今までこんなに自分のことを心に掛けてくれた人がいただろうか。3歳で母と生別。8歳で被爆後、父とも別れて家を飛び出し、20年秋には似島学園(南区似島町)へ。18歳で島を出た後はまた独り。自暴自棄に陥りかけたこともあった。メサーブさんからの定期便が青年を辛うじて支えた。

 「もう一度理髪の道でやり直そう」。村岡青年は38年、中区内の理髪店に就職。近くに勤めていた真理子さん(44)と知り合い2年後に結婚。その年の秋に今の場所に店を構えた。

 結婚し店を持ったことを一番喜んでくれたのもメサーブさんだった。「オサムや家族に一目会いたい」。48年、広島にやってきた。13歳で縁組を結んでから23年ぶり。母と初めて顔を合わせた村岡さんは「今も温かい大きな手の感触が忘れられません」とその日を思い浮かべる。

 帰国後、母は村岡さんのもてなしに感謝をこめて、「自分の人生で果たさねばならないことをやっと果たした気がする」と手紙を寄せた。村岡さんにとっても、長い交流を振り返って、たった一度の母との対面が「最大のハイライト」だった。

 メサーブさんは、晩年、狭心症の持病に悩まされ、手紙も途絶えがちに。そのころ村岡さんの長女、恵さん(21)は中学、高校で英語を学び、辞書を片手に翻訳を引き受けるようになる。娘を「通訳」に、今度は村岡さんが、母を励ます手紙を書いた。

 《メグミ、あなたの英語はとても上手よ。家族のことがよく書けていました。私は日本にこんな立派な孫を3人も持てて幸せです=58年1月11日付》

 3年前の60年春、恵さんは念願の大学へ進む。「言葉の壁」は、ほとんどなくなった。だが、メサーブさんからの便りには「体調が思わしくありません」という文面が多くなる。そして一昨年、死去の知らせ。

 「覚悟はしていたが、しばらく仕事が手につかなくて」。そう言って、村岡さんは遺影に目をやった。「でもね、今の自分があるのは、母からの励ましの手紙のお陰です。今思えば、人生の一番大切な時期でしたからねえ」

(1988年7月29日朝刊掲載)

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