×

連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <8>

■特別取材班 田城明、西本雅実

約束 送金10年 進学に道

 「たった1度だけ会った子供に、なぜあそこまでしてくれたのか」。フリーで出版評論活動をする村上信明さん(46)=東京都府中市押立町四丁目=は、29年当時の新聞記事を前にじっと考え込んだ。「イタリア人と初の養子縁組」と報じられた村上さんは中学、高校、大学と10年間、教育資金の援助を受けた。「僕は甘んじただけ。言葉もない」

   フランコ・モンタナリさんとの出会いは、全く偶然だった。イタリア大使館の参事官だった彼は、たまたま訪れた広島で精神養子運動を知り、自ら広島市に縁組あっせんを依頼。相手に選ばれたのが、戦災児育成所にいた小学6年生の村上さん。3歳の時に被爆、1人助かった少年は、育成所の中では最年少組だった。

 「いい話があるから来い」。理由も分からず学校を早退して市役所に行くとモンタナリさんがいた。「高校へ行かせよう」と約束する。その時、喜んだのかどうか。顔もおぼろげだ。記憶に残るのは、翌朝、学校で級友に新聞に名前が出ていたのを冷やかされたこと。「約束」の持つ重さが分かるには幼過ぎた。

 「親がいたら-などと考えてもみなかった」。育成所には多くの兄や姉がいた。何よりも自分の境遇を割り切っていた。中学時代、2度あった正式な養子の話も断った。高校には、奨学金とモンタナリさんからの年間約4万円の援助で通う。東京へ出てジャーナリストになるという目標があった。だが、生計の目途については、「稼げば何とかなる」と深刻には考えなかった。

 《休暇を終えてこちらに戻ると、信明の手紙が届いていました。立派な青年になりましたね。大学へ進学するなら知らせて下さい。どのくらい送金を増やせばいいのでしょうか=35年8月23日付》

 アフリカのリベリア共和国に転任したモンタナリさんは、育成所の名称を改めた市「童心園」に約束の延長を申し入れてきた。翌年、村上さんは早稲田大学文学部に合格。入学金はそれまでの援助で賄った。問題は生活費、授業料。童心園長は「年間最低17万円は必要」とモンタナリさんに伝える。「私の予想を上回る額」と驚きながらも約束を守り、年間7万2千円から10万円を送り続けた。

 倉庫会社、デパート、皿洗い、テレビカメラマンの助手…。身近に頼る人も少なく、アルバイトに明け暮れる身にとって、「約束」は喜びであると同時に、心苦しくもあった。童心園長にあてた村上さんの手紙-。

 《下宿生にとっては苦しい状態ですが、1カ月8千円の送金はモンタナリさんには非常な負担と思います。増額はお断りして下さい。何事も自分で処理しなくてはならないし、それが当然でしょう。送金が途絶えても、ここまで来させてもらったのだから、むしろそれを感謝すべきでしょう=36年10月6日付》

 大学卒業前に、送金は途絶えた。広島市公文書館に残っているモンタナリさんの手紙は「原爆孤児を援助していることがうれしい」と簡単に記すだけ。自らの生活にはほとんど触れていない。村上さんは今、出版社勤めを経て独立し、著作、講演で多忙な日々。1児の父親になった今、ふと「約束」の持つ重さにたじろぐ。

 「被害者、加害者の関係ではなしに原爆、ヒロシマを人間として受け止めた。その気持ちを具体的に表したのが、モンタナリさんの約束ではなかったのか。言葉だけの励ましでなく、目に見える行為。すごいことだ」。手掛かりのないまま、何度か「約束」の主を追った。健在であれば、今月22日に83回目の誕生日を迎えたはずだ。

(1988年7月31日朝刊掲載)

年別アーカイブ