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連載・特集

ヒロシマ精神養子 第2部 生き抜いていま <9> 

■特別取材班 田城明、西本雅実

旅立ち 母親に会いに米へ

 森島隆さん(49)=広島市安佐南区中筋一丁目=は「お母さん」の身を案じていた。25年から途切れることのなかった便り。それが昨年は恒例のクリスマスカードも来なかった。「年も年だし。万一のことがあったらと思うと…」。理容院のガラス越しに、どんよりとした梅雨空が広がっていた。

   母の名はグレース・メイヤーさん。ニューヨーク近代美術館の写真分野の学芸員である。メイヤーさんは、いとこで精神養子運動の提唱者、ノーマン・カズンズ氏(73)から広島の子供たちの話を聞き、精神親として真っ先に名乗りを上げた1人だ。

 「僕の場合、本当に言葉で表せないほどお世話になった」。とつとつとした口調に母への思いがにじんでいた。

 広島市西区観音町で被爆。父と母を相次いで失った。広島戦災児育成所の仲間の多くがそうであるように、中学卒業と同時に行李(こうり)1つで実社会へ。市内の理髪店に弟子入りし、夜遅くまで下働きに追われる日々。食事と寝る場所を確保するのが精いっぱいの毎日では、海の向こうに手紙を書くゆとりもなく、親子の縁にも強い執着はなかった。

 メイヤーさんは、母として息子の行く末を気遣った。育成所を通し、便りが途切れがちな森島さんにせっせと手紙を寄せた。「どうしていますか。頑張っていますか。幸福ですか」。必ず、誕生日とクリスマスには100ドル(当時3万6千円)の小切手が届いた。「愛を込めて」と。

 送金は、一部は理容師免許取得のための通信教育に生かした。だが、将来に備えて蓄えることはしなかった。「独り身だったし、生来ののんびり屋でね。お母さんの気持ちに報いなくてはと、深く考えてはいなかった」と苦笑いする。

 転機が訪れた。仕事仲間の弘美さん(48)と37年結婚。家庭を持ったことで責任は重くなった。原爆で父を亡くした妻と「独立して店を持とう」と励まし合った。そして、いつの日か「お母さんに自分の店を見てもらおう」と心に誓った。

 《カズンズさんが広島市の特別名誉市民に決まりました。精神養子運動を通じお母さんと出会えたことは、喜びです。東京オリンピックが開かれる来年には店を開きたいと頑張っています=38年10月26日付》

 計画通り39年、森島理容院がスタートした。「お母さん」は「タカシ、ヒロミ」とその後も変わらず年、200ドルを送って来た。独立したとはいえ、生活に追われる夫婦には貴重な援助だった。苦しいなか、2人は母に倣って、育成所の後身である市「童心園」にケーキを贈ったり、子供たちの写真を撮ってやるなど、励ます側にも回った。

   店も軌道に乗り、今は高校2年の長男とにぎやかな毎日。手紙は、店のお客さんに翻訳を依頼。弘美さんの手編み、浴衣、羽子板を送り、今日まで「お母さん」と呼び続けた。「一度会ってお礼を言いたい」。日増しにその思いが募り、広島へ招待したが、メイヤーさんの都合で対面は実現しないまま。音信が途絶えて半年。今一度便りを出した。短い返信が6月末、届いた。「喜びでいっぱいです」と書かれていた。

 「元気なうちに一度じっくり親孝行しよう。亡き両親の分も込め、お母さんに心から『ありがとう』を言おう」。森島さんは、生まれて初めて手にしたパスポートを手に今月15日母の元へ向かう。独身を通した母はその日、息子と孫に初めて会う。

(1988年8月1日朝刊掲載)

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