×

連載・特集

ヒロシマ精神養子 取材を終えて 「親子」結ぶ良心と善意 

■特別取材班 田城明、西本雅実

 原爆で肉親を失ったヒロシマの子とアメリカの市民が養子の縁組を結んで交流した精神養子運動。広島市公文書館で見つかった親と子の手紙をもとに、私たち取材班は「精神養子運動」の検証を試みた。「古いことで記憶にない」という人もいるにはいたが、大部分の「精神養子」たちは、わが子が20歳前後にさしかかった今、改めてアメリカの「親」の心をかみしめながら生きていた。あの苦難の時代、海の向こうから寄せられた米国市民の良心と善意は、1人1人の胸の中で、これからも光を放ち続けるに違いない。

ひとことお礼を 年ごと募る感謝の念

 「健在なら一言お礼を言いたいんです。消息さえつかめたら…」「あのころ親の手紙を読み、返事を書くことが心の支えでした」。訪ねた多くの人たちが、表現の違いはあれ、見知らぬ自分たちを援助してくれた精神親と育成所関係者への感謝の気持ちを膨らませ、何とか恩に報いたいと思い始めていた。

 食料難、衣料品不足、そして何よりも肉親を失ったという心の痛手。「気に掛け、援助してくれる人なら、だれでもよかった」。2人の子供を育て上げた主婦(53)の言葉が象徴するように、最も助けが必要な時期に、手を差し伸べてきた人たち。それが海を隔てたアメリカの精神親だった。

 「率直に言って、子供のころは『グローブやチョコレートを送ってくれる人』という意識でした。でも今にして思えば、『見も知らぬ人がよくも…』と頭が下がります」。50歳の男性のこの言葉が、大なり小なり、育成所出身者に共通した思いと言っていい。

 「なんとか孤児を救ってやりたい」という親。「プレゼントを送ってくれるアメリカ人」という意識しかなかった子供たち。「親」と「子」に、意識のずれがあったことは否めない。しかし、どうにか平穏な生活を送れるようになったいま、そのギャップは確実に埋められようとしている。

 むろん、広島戦災児育成所で、子供たちの養育に献身した人たちを抜きにして、精神養子運動はあり得なかった。言葉や習慣の違いといった壁を克服、運動を継続できた背景には、親と子の間で献身的努力を重ねた人たちがいた。

 例えば育成所長の山下禎子さん=37年死去。子供たちから「おばあちゃん」と慕われた禎子さんは、養子縁組が成立するたびに礼状を書いている。

 《ここで子供たちが悲しみをすっかり忘れ、私の下で健やかに成長してくれるよう祈っています=25年3月》

 育成所の創設者で「おじいちゃん」と呼ばれた山下義信さん(94)。子供たちと寝食をともにし、日常の世話をした保母や職員。病気治療を快く引き受けた近くの開業医。手紙の翻訳に携わった日系2世の引き揚げ者…。これらの人々の支えがあって初めて、交流は維持された。

 施設が広島市に移管後も、「童心園」の園長を務めた故矢吹憲道さん=58年死去=らは、育成所出身者の就職、進学に奔走した。施設を巣立ち、精神親との関係が疎遠になる子供に代わって親たちに近況を伝え、教育資金の継続を依頼する手紙を書き続けた。

 広島市公文書館に残る手紙を目にした時、子供たちには「育成所の親」と「精神親」とがいたことに改めて気づく。首都圏で暮らす男性は「育成所は原爆の見学コースということでイヤな思いもしたが、やはり心の古里」と言った。

 私たちが訪ねた育成所出身者の多くは、自らの少年期、青年期にいて語ることを拒んだ。だが、話が「おじいちゃん」「おばあちゃん」や精神親に及ぶと、たいてい表情が緩んだ。そして異口同音に「お礼を言いたい」と口にした。

強い拒否反応 「いつまで孤児」のしかかるヒロシマ

 「触れてほしくない」。精神養子の取材に、大半の人たちがまず拒否の姿勢を示した。「昔のことを周りに知られるのはたまらない」。程度の差こそあれ、全員に共通した思いと言っていい。「いつまでも原爆孤児と呼ばれたくない」と口を閉ざした男性。「主人にも子供にも自分のことは話してないんです」と電話を切った女性。

 一覧表を見ても分かるように、広島を離れて生活の場を持った人が多い。「帰る家もない。同じ苦労をするなら、『原爆』を意識しないですむところが…」。何人かが、広島との決別をそう振り返った。進学、就職、結婚。人生の節目には必ず「孤児」を意識させられた。

 広島にとどまった人たちは、いやでも自らの生い立ちを考えざるを得なかった。育成所を出て、働きながら定時制高校に通った男性は「原爆の犠牲者への同情なら、もうたくさん。本当に助けを求めた時、一体だれが面倒を見てくれたのか」と問いかけてきた。その口調には、今なおぬぐい切れない心の傷、満たされない思いが漂っていた。

 人知れず努力を重ね、やっとつかんだ平穏な日々。昨秋、広島在住の育成所出身者は「あつまろう会」を開き、近況を確かめ合った。兄弟のように育った彼らの結びつきは今も強い。しかし一方、参加を見合わせた人、まったく消息の分からない人もいる。「仲間に対してさえ連絡を断つ気持ちは痛いほど分かる。原爆を忘れて生きたいということだ」とメンバーの1人は思いやる。

 被爆者運動、平和運動には距離を置き、冷めた目で見つめる。若いころは生きて行くのに精いっぱい。学童疎開者には、被爆者としての公的な援助もない。肉親、家を失い、原爆の一番の犠牲者でありながら、被爆者対策からも置きざりにされ、原爆孤児の問題は社会的にも解決されないまま時間だけが流れた。

 「原爆の痛ましさはだれよりも知っている」。そんな強烈な自負がありながら、体験を語ることへの抵抗感は根強い。2児の父親は「今さら名乗り出て何の意味があるだろう」と言う一方で「われわれのような犠牲者を生み出さないめにも語らなくては」とも言った。沈黙を押し通すことでヒロシマの持つ重さを無言のうちに問うのか。あえて口を開くのか。「原爆孤児」と呼ばれた人たちにとって、心の整理は今もついていない。

脈打つ博愛精神 国境超え救助の伝統

 精神親として原爆孤児を援助したアメリカ市民に、原爆投下への良心の苛責(かしゃく)、しょく罪の意識があったことは間違いない。だが、その底流に博愛精神の伝統が脈打っていると言えないだろうか。

 米国では、恵まれない子供たちを家庭に引き取ったり、国境を超えて個人を援助する習慣が戦前から根づいていた。米国市民にとってヒロシマの子供たちへの援助は、必ずしも特別なことではなかったし、現在も国籍の違う子供との養子縁組は、日常的に行われている。

 翻って日本ではどうだろうか。「経済大国ニッポン」。諸外国からこう呼ばれて久しい。「物を売ることには熱心だが、援助はあまりしない」という声もある。こうした非難が高まる中、国レベルでの海外援助は確かに年々増えている。しかし、精神養子運動のように個人レベルで、例えば、発展途上国の子供を援助する試みはほんとんどない。

 日本では「養子」といえば「家を継ぐため」といった意識がまだ根強い。「血縁関係の中での相互扶助」はあっても、第三者、まして外国の恵まれない人に個人レベルで援助するという思考は希薄である。

 こうした違いを「日米の精神風土の差」と言ってしまえばそれまでだが、世界のあちこちに戦争で肉親を失った子供たちがおり、南北間の格差が歴然としてある。「日本人に精神養子運動ができる日が来るだろうか」-取材を終え、そんなことも考える。

つかめぬ実数 縁組 施設の外にも

   広島戦災児育成所の子供たちから始まった米国の精神親との養子縁組は、何件あったのだろう。広島市精神養子委員会がまとめた資料によると縁組がピークを迎えたのは、28年の409人。この中には育成所や似島学園など7施設のほか、財団法人ヒロシマ・ピース・センターの仲介による施設外の子供も含まれている。その人数はその後、子供の成長とともに減っていった。養子委員会と米国ヒロシマ・ピース・センター協力会との関係は34年まで続いたが、縁組数の総数が記録に残っているのは33年11月の89人が最後となっている。

 しかし、実際には、縁組数には含まれても、縁組年月日の記録がないものや、一度も手紙を交わしていないケースもあり、正確な数はつかめない。29年、市渉外課がまとめた精神親の人数は、ピース・センター分を除いて270人。こうした数字と、関係者からの取材を重ね合わせると、精神親の数は300人前後とみられる。

(1988年8月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ