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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第1部 原爆小頭症患者は今 <2> 誕生

■記者 門脇正樹

誕生 新たな命貫いた放射線

 親に結婚を反対され、駆け落ち同然で山口県内の実家を出てから5年が過ぎていた。当時、24歳。建物疎開作業に向かう13歳上の夫を見送り、配給品のみその代金を支払うため自宅を出ようとしていた。

 穏やかな朝の始まりを一瞬の閃光(せんこう)が裂いた。今、84歳になる母の波乱の人生は、このとき幕を開けた。

 自宅は爆心地から北西へ約1キロの広瀬北町(広島市中区)にあった。意識が戻ったとき、青空は消えていたという。体にのしかかる柱をよけ、泣きわめく五歳の息子を抱えて北へ逃げた。横川橋(西区)近くで炎に囲まれたものの、川に飛び込んでやり過ごした。

 外傷はなく、安堵(あんど)した。だがこのとき、目に見えぬ放射線に体を貫かれたことも、その胎内に新しい命が宿っていたことも、母は知らない。

 日が暮れた後、嚶鳴(おうめい)国民学校(現在の安佐南区の古市小)で、瀕死(ひんし)の夫を見つけた。焼けただれた背中にガーゼとわずかな薬が塗ってあった。それから3日後、夫は東の方角を向いて「天皇陛下万歳」とうめき、やがて息絶えた。

 息子を連れて実家へ。親に合わす顔はないと迷い、家の周りをうろうろしていて妹に見つかった。たらいにお湯を張って体の汚れを落とすと、全身に紫斑が浮いていた。やがて髪はすべて抜け落ちた。近隣の医師が代わる代わる訪れては痛み止めの薬を置いていった。「珍しがってね。治療するわけじゃないんですよ」

 11月末、ようやく体の自由が利くようになった。広瀬北町へ戻り、自宅があった辺りに柱を4本建て、壁の代わりにトタンを張った簡素な小屋で息子と暮らした。つわりが始まったのはそのころ。

 翌年3月末、娘が生まれた。体重はわずか500グラム。両手にすっぽり収まるほどに小さかった。

 娘は6歳になっても足腰が弱く、口数が少ないため、小学校入学は2年遅らせた。「長い距離を歩けないし、下の方(排せつ)も、私がそばにいなきゃだめでした」。入退院を繰り返し、15歳で小学校を卒業した。母の仕事の関係で北九州市に転居し、そこで娘は義務教育を終えた。21歳になっていた。

 同じ1967年、当時の厚生省は「近距離早期胎内被爆症候群」の名称で、原爆小頭症患者と被爆との因果関係をやっと認め、6人を認定した。被爆地から遠く離れて暮らす親子の存在に周囲が気付き、娘が小頭症と認定されるまでには、さらに22年の歳月を要することになる。

(2005年7月12日)

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