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連載・特集

核兵器はなくせる 第9章 ヒロシマから <2> 梶山恭良さん

■記者 増田咲子

 広島市南区、比治山公園の墓地。梶山恭良さん(68)=広島県府中町=は、父と母が眠る墓の前にたたずんだ。

 16日、非政府組織(NGO)ピースボート(東京)が主催する「地球一周 証言の航海」に乗り込む。梶山さんら被爆者9人と被爆2世1人が乗船し、3カ月かけて中国、ベトナム、ロシアなど20カ国を巡る。寄港地や船内で、あの日の惨状を語りながら。

 とはいえ梶山さんはこれまで公の場で、自らの被爆体験を口にしてこなかった。頭の片隅にはあっても仕事に追われ、語る余裕がなかったからだという。「多くの人に助けてもらった。今度は自分が平和のため役に立ちたい」。昨年9月、勤めていた会社を退職。時間のゆとりが心境変化をもたらした。

 1945年8月6日朝。比治山本町(現南区)の自宅で聞いた大音響が今も耳に残る。「歯車が崩れ落ちるような感覚」だった。炊事中の母は割れた窓ガラスが体に突き刺さり、負傷者を運ぶトラックに乗せられたまま行方が分からない。遺骨は今も戻らない。

 父は同年4月、東南アジアで戦死した。

 当時3歳の梶山さんに両親の記憶はない。兄や祖父母と戦後を生きた。祖父の木工を手伝い、中学を出ると就職。4年たって夜学の高校に通った。そんな自分を支える「精神親」になってくれたのが、シャンソン歌手石井好子さんの弟夫妻だった。今も「お父さん」「お母さん」と呼んで慕う。

 今回の船旅は、家族の勧めもきっかけだった。お好み焼き店を営む兄嫁の敏子さん(68)=南区。やはり原爆に親を奪われた敏子さんは2008年のピースボートの旅に参加していた。

 「姉の核兵器廃絶への思いは強い。それは私も一緒。罪のない人の命が一瞬にして奪われた。やはり悔しいよ。原爆がなければ人生は違ったのだから」

 「船旅で巡る国々の人たちがヒロシマ、ナガサキをどう思っているのかを知りたい。その中で廃絶のために何ができるのか、見いだせると思う」

 今回の船旅では被爆者のうち2人が途中でいったん下船し、核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれている米ニューヨークへ向かう。梶山さんは選ばれなかったけれども、その2人に思いを託す。「核兵器への包囲網は今、かつてなく強い。被爆地の訴えは必ず、人の心に響く」

(2010年4月14日朝刊掲載)

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