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連載・特集

核兵器はなくせる 第9章 ヒロシマから <3> 永原富明さん

■記者 林淳一郎

 満開の桜が広島市内を彩った4月初め、中区の原爆ドーム前に40人ほどの人垣ができた。被爆者が描いた原爆の絵、世界の核実験被害者の写真を掲げ、被爆2世の永原富明さん(63)=呉市=が訴える。「ヒロシマはまだ終わっていません。それを忘れないで」

 知人に誘われて2007年2月からドーム前に立ち、訪れる観光客にボランティアでのガイドを申し出る。これまで約1万9千人に原爆の被害を語り、爆心地一帯を案内した。「次第に表情が変わり、涙ぐむ人もいます」。5月には広島県原水協の派遣団に加わり、核拡散防止条約(NPT)再検討会議がある米国を訪れる。

 10年前まで、原爆は遠い存在だった。庄原市西城町に生まれ、自分が被爆2世だとも知らずに育った。軍人だった父は爆心地から約1キロの広島城近くで被爆し、その後も2週間ほど遺体処理に当たったという。その父は2000年、82歳で死去した。母が初めて話してくれた。にわかに原爆を、自分のこととして意識し始めた。

 黙して語らなかった父は何を思っていたのだろう。多くの被爆手記集を読むうちに、身も心も傷ついた被爆者の苦悩を知った。「語ることすらためらわせる原爆の罪は大きい」

 民間企業の定年を控えた2005年、広島県被団協(金子一士理事長)に入った。2009年1月には日本原水協がマレーシアで開いた原爆展に参加した。現地の大学生たちは、焼け野原になった広島の写真を見て口々に言った。「何発の爆弾で?」「えっ、1発…」。絶句する彼らに海外へ発信する重要さをかみしめた。

 再検討会議に向けて今年1月から呉市で、核兵器廃絶の願いを米国に届ける署名活動も進めている。あるとき、署名した女性が「ありがとう」とすがりついてきた。最初、その意味が分からなかった。聞けば女性は被爆者だと明かした。「思いを伝えることができる」との感謝の言葉だった。「あの日」を胸にしまい込んだ父の姿が重なった。

 米国には、ふだんのガイドで使う資料や熱線で焼けた被爆瓦の破片を持参する。滞在中、ネバダ州の核実験場にも赴く。900回以上の実験が繰り返された地。その一回一回が、今も膨大にある核兵器につながる。

 「米国で伝えたいことがあるんです」と永原さん。「広島は立派に復興した。しかし被爆者の苦しみは今も続いている」と。

(2010年4月15日朝刊掲載)

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