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連載・特集

核兵器はなくせる 第9章 ヒロシマから <6> 坪井直さん

■記者 林淳一郎

 日本被団協代表委員の坪井直さん(84)=広島市西区=は、世界にヒロシマを訴える心境を「一滴を投じる気持ち」と表現する。

 5年に1度の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け、日本被団協が米国へ送り出す代表団54人の団長を務める。自身の再検討会議参加は1995年以来、連続4回目だ。

 NPTの曲折はつぶさに見てきた。2000年の再検討会議は核兵器保有国も含めた全会一致で「核兵器廃絶への明確な約束」で合意した。ところが2005年は一転し、最終文書の採択に至らないまま会議は決裂した。

 そして今回。原爆投下国のオバマ大統領は「核なき世界」への努力をたびたび口にする。「大いに刺激されとるよ。核兵器がパッとなくなるわけではないだろうが、今こそ廃絶への道筋を揺るぎないものにしたい。徹底的に訴えていく」

 1945年8月6日。爆心地から約1.2キロの富士見町(現中区)で被爆した。全身やけど。「周りも致命的なけがの人ばかり。みんな将来があっただろうに。命とは何なのか、そんなことばかり考えた」。市内の親類宅へ向かう途中、橋上に座り込み、石で地面に「坪井ここに死す」と記した。

 1年間の療養の後、大学を卒業。23歳で数学教師として教壇に立った。8月6日が近づくと、生徒に自らの「原点」を語った。一方で入退院を繰り返し、3度の休職をした。

 退職後、原爆展開催や核実験抗議などで10カ国以上を訪ねた。「核兵器で市民を守るなんてできない」。各地でそう説く。「被爆者が先頭に立たねばならない」との信念が行動へと駆りたてる。

 日本被団協はNPT再検討会議に合わせ、会場となるニューヨークの国連本部で原爆展を開く。現地の学校などからは「被爆体験を聞かせてほしい」との要望が相次ぐ。「話すだけ、聞くだけではだめ。核兵器は人道的に許されないという共通の理解が生まれなければ、ゼロへの道は描けない」

 核兵器廃絶への「呼び水」となる国際機運の芽生えを感じている。同時に、貧富の格差や食糧問題、民族対立など平和の在り方を広くとらえ、世界の市民と手をつないでいく必要性も意識する。

 「渡米する被爆者の体力はギリギリ。今回が最後かもしれん。だからこそ一人でも多くの心を揺り動かす。それが私たちの使命です」=第9章おわり

(2010年4月19日朝刊掲載)

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