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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第2部 聞こえなかった原爆 <4> 夫婦で分かつ

■記者 木ノ元陽子、野崎建一郎

夫婦で分かつ 手話教わり あの日共有

井上常磐(ときわ)さん(78)=山口県阿知須町

 2人交互に、あの日のことを語る。まるで夫婦でくぐり抜けたように。「家が崩れ落ちて、防空壕(ごう)に逃げる途中…」。記憶をたどる常磐さんの手が止まると、夫の博さん(82)が横からすかさず手話で補った。「道は死体だらけで、よけながら歩いたんだ」

 これまで、同じろう者の博さんにしか語ることができなかった。だから、繰り返し、繰り返し、話した。博さん直伝の手話で。

 常磐さんにとって、60年前の夏はあまりにむごたらしい情景が多すぎる。ろう学校を卒業して初めて迎えた18歳の真夏は「自分の中から消し去りたい記憶」である。

 8月6日。広島市中区羽衣町の自宅の風呂場で洗濯板を手に取った瞬間だった。「空気の振動で何か大変なことが起きたと感じた」。直後、猛烈な爆風が家の壁やガラスを砕いた。自身はけがを免れたが、和裁をしていた母は、割れた天窓のガラスで頭に裂傷を負った。

 土ぼこりなどで家の中が真っ暗になり一瞬、母を見失った。思わず「お母さん」と叫んだ。返事があっても聞こえないが「母がいないとろう者の私は生きていけないと思った。必死だった」。血が流れる頭をタオルで縛り、一緒に家を飛び出た。

 約2キロ離れた防空壕までの道のりは、思い出すと今でも胸が苦しくなる。黒焦げの死体、皮膚がめくれ顔や腕が腫れ上がった負傷者、川に飛び込み、おぼれ死んだ人たち。歩いていた近所のおばさんは突然、脇の下から血を噴き出し、倒れて亡くなった。

 忘れたい出来事だけれど、伝えたくなかったわけではない。伝えたくても伝えられない事情があった。

 当時、全国のろう学校では、相手の口の動きを読み取り、声で伝える「口話」の指導を徹底していた。「手話を使うと先生にむちでたたかれた」。学校の方針に従って家でも手話はできなかった。日常会話に支障ないものの、最愛の母とも「十分に意思疎通ができない」状態だった。

 1947年、知人を頼って宇部市に移り住み、博さんと知り合う。博さんは、同市でろう者の交流グループを立ち上げたリーダー的な存在。初めて体系的に手話を教えてもらい「自分の考えを伝える楽しさを知った」。

 23歳で博さんと結婚。もはや抱えきれなかった。結婚して数年間、ほぼ毎日、被爆前後の様子を詳細に博さんに語り続けた。口話では吐き出せなかった思い。原爆投下時、下関市にいた博さんは今では、自分が経験したように語ることができる。「気持ちがずいぶん楽になった」。常磐さんは自分の胸を指した。

 耳が聴こえ、手話が不得手な長男、長女には被爆の話はほとんどしていない。「原爆の恐ろしさや平和の大切さを伝えた方がいいのはよく分かっている」。しかし、消えない苦しさと、言葉の「壁」が、今も夫以外にあの夏を語り継ぐことを困難にしている。

(手話通訳・綾城明美さん)

(2005年7月20日朝刊掲載)

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