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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第3部 追体験 <1> 向き合う母と子

■記者 宮崎智三、桜井邦彦、門脇正樹、加納亜弥

向き合う母と子 断片たぐり 「あの日」共有

 原爆投下から60年。被爆者の平均年齢は73歳を超え、その肉声を直接耳にする機会は少しずつ減ろうとしている。あの日の体験を世代を超えて伝え、そうして被爆地全体の記憶として刻み共有する。急がなければと焦る被爆者、受け止める難しさに戸惑う若者たち…。歳月を重ねるごとに困難さを増す体験継承の営みを追う。

 車いすに座り、母は言葉にならない声を振り絞った。広島市西区、JR横川駅の改札口前。いぶかる通行人の視線には構わず、長男は寂しそうな表情を浮かべた。「ここから(列車に)乗ったんかって? わしには分からんのよ」

 60年前のあの日、配電業を営む矢野聖(きよし)さん(62)=安佐北区=は確かにここにいたらしい。「断片はあるんです。どこかの駅だった。腕の皮がむけた人を見た」。二歳の記憶は、ほんの小さなかけらでしかない。

 母しげ子さん(90)にとっては強烈な体験だった。聖さんと娘2人を連れ、可部町(安佐北区)の実家に疎開するため、この駅で列車に乗りこんだ。発車寸前の車内を、閃光(せんこう)が射抜いた。

 翌日、夫と可部で再会できた。一緒に焼け跡に戻ってみると、上天満町(西区)の自宅で義母はおなかの部分を残し、骨になっていた。その肉塊を持ち帰り、しげ子さんは心を鬼にして黒くなるまであぶったという。原爆の熱線でやけどした二女の顔に、薬代わりに塗るためだった。

 夫は16日後、もだえながら息絶えた。

 しげ子さんは和洋裁の仕立てで戦後を生き、3人の子を育て上げた。孫にも恵まれた。しかし、1982年と85年の2度、脳内出血で倒れ、全身まひに。自在に操れない言葉を聞き分けるのは、聖さんたち家族だけとなった。

 被爆体験を残したい意識は、しげ子さんは人一倍強いらしい。4年ほど前、「本にしたい」と言い出した。聖さんは母と向き合うことにした。仕事に少し余裕ができたし、何より「自分の人生もかかわっている」。

 毎日、ベッドわきに座った。義母の遺体を見つけ焼いたときのように切なく怖い場面で、しげ子さんの声はかん高くなる。聖さんの気持ちは時に、とげとげしくなる。言葉は聞き取りにくく、60年前の情景は思い浮かばない。いらだたしさは母にも伝わり、互いに疲れた。半年がかりで何とか本は完成した。

 そして今年七月。聖さんは寝台タクシーで横川駅へとしげ子さんを連れ出した。「最後の機会」のつもりだった。新たな記憶を引き出したいとの期待もあった。しかし、逆だった。駅前ロータリーは2人をあの日から遠ざけるかのように、その光景を一変している。

 帰ろうとも迷ったが、散策したい衝動に駆られた。商店街を通り、駅北口へ回った。「この辺から3人で北に逃げたんよね」。息子の問い掛けに母は空を見上げ、こくりうなずいた。「ありがとう」と繰り返した。

 帰りの車内、しげ子さんは冗舌になった。燃えさかる自宅方面を振り返り、夫や義母のもとに引き返そうかと随分迷ったこと、聖さんたち3人の子の顔を見て、その思いを振り払ったこと…。聖さんには初耳だった。

 新たな記憶のかけらが、ひとつ見つかった。

(2005年7月25日朝刊掲載)

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