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連載・特集

ヒロシマ60年 記憶を刻む 第3部 追体験 <5> 写真の向こうに

■記者 宮崎智三、桜井邦彦、門脇正樹、加納亜弥

写真の向こうに 物言わぬ少年の背中

 写真の中で少年は、黒く汚れた白シャツ姿で立っている。丸刈りの頭。脚にゲートルを巻き、腕に薬か何かを塗ってもらっている。後ろ向きで、顔は見えない。

 あの日、きのこ雲の下で撮影されたわずか5枚の写真。うち御幸橋西詰め(広島市中区)を写した1枚に、当時の市立中学校(現基町高)一年だった沓木(くつき)明さんがいた。

 「気になるんです。表情が見えないから、なおさら」。広島県大野町、中学教諭の沓木里栄さん(38)は写真の中の叔父を指さした。

 明さんの兄は、焼け野原に弟を捜し回った。母は玄関先で先がとがった石を見つけ、息子が帰ってきたと仏壇に置いた。後日、写真を見た母は、その少しとがった頭や少し大きな耳の形を見て「明に間違いない」と言ったという。父は写真に写る人々を訪ね、息子の消息を追った。

 だが、明さんは写真に後ろ姿を焼き付けたきり、行方不明のまま。その目が何を見て、その後にどこへ向かったのか、手掛かりは今もない。

 明さんの兄が里栄さんの父である。その啓郎さんが1985年に亡くなって以来、里栄さんたち家族は、明さんの話に触れなくなった。家族で毎年欠かさず訪れていた市立中の慰霊碑からも、いつしか足が遠のいた。

 それでもなぜか里栄さんは、写真の少年の姿が脳裏から消えなかった。あの背中は、自分に何かを訴えかけている。

 歳月を重ねたこの夏、里栄さんは、明さんと同窓の石田晟(あきら)さん(73)=広島県大野町=に出会った。3年前から遺族の証言を参考に、友が逃げ惑った道のりを調べ続けている。

 「叔父と同級で生きてる人はいるんですか」。里栄さんの問いに、石田さんは「全滅だよ」。

 石田さんはおもむろにペンを持ち、市立中1年生が建物疎開作業に動員されていた小網町(中区)から御幸橋までの地図を描き始めた。写真の少年が明さんなら、東へ2本の川を渡り、御幸橋まで3キロ以上を移動した。そこまで歩くことができたなら、なぜこつぜんと消えたのだろう。

 「沓木君に関して分かることは、本当にわずかなんだよ」。石田さんはペンを置いた。「でも、写真の少年は間違いなく明さんだ」。段原地区にあった自宅に向かったのなら、方向は不自然ではない。何より「育て上げた親の証言が決め手」。

 2人は、学徒たちの動員先に立つ天満川沿いの市立中慰霊碑に向かった。石田さんは碑の下からきり箱を取り出した。中の8枚の板に、犠牲者373人の名前が記してある。せみ時雨が耳をつんざく。

 里栄さんは「沓木明」の名に触れてみた。叔父はあの日、ここにいた。燃えさかる道を自宅へと向かい、御幸橋に立ったのだろう。1歳の娘が成長すれば、一緒にここを訪れてみたい。でも、何を語ろうか―。

 物言わぬ写真の背中。当時を知る家族もすでに亡く、これ以上の事実をつかむすべを、里栄さんは思いつかない。

(2005年7月28日朝刊掲載)

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