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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第1部 カナダに生きて <2>

■記者 西本雅実

生死の淵 傷見ては絶望と怒り

 「いっそあの時に死んでた方が、どんなに楽だったか。娘時代はそんなことまで考えてたのよ…」。橘美沙子さん(66)は、「あの日」から渡米治療に踏み切るまでを、腹をくくったように語り始めた。

 被爆当時は広島女子商業学校の2年生、15歳だった。実家は安芸郡矢野町(広島市安芸区)。3人姉妹の末っ子は、国民学校(小学校)6年の時に胸を病んだ。1年遅れで進学したものの、戦況の悪化で、「学徒報国隊」として駆り出されるようになる。

 母が銘仙を解いて作った黒い上っ張りに、かすりのもんぺ。麦わら帽子をかぶり、肩からは炒(い)った大豆の弁当が入った袋を下げ、鶴見橋へと向かう。爆心地から約1.6キロ。その日が最初の家屋疎開作業だった。

 「あそこにBちゃんがおるよ」。戦時下の少女たちは憂さ晴らしを込めて、米国戦略爆撃機B29を「Bちゃん」とあだ名していた。友の声につられて視線を転じた。晴れわたった夏の空に、その瞬間は「エノラ・ゲイ」と知るよしもない原爆投下機を見た。

 気がつくと川岸まで吹き飛ばされていた。上っ張り、もんぺは燃えてワカメのようにぶらさがり、パンツ一枚に。「同級生の一人が『おかあちゃん』と呼んで…」。小走りに東へ、東へと逃げた。

 「美沙子?」。変わり果てた娘の姿を見つけた母は泣き崩れる。収容先の地元の学校から戸板で自宅に戻った後も、生死の淵(ふち)をさまよう。

 両親や姉たちは、塩水とゆう薬を付けたガーゼや、焼き場で拾い集めた骨の粉を付けてウミを取った。懸命な介護が続いた。

 広島女子商学園の校誌によると、329人の生徒が原爆死した。その大半が鶴見町、現中区の鶴見橋西詰めにいた1、2年生だ。

 トタンぶき兵舎の仮校舎で、授業を再開していた母校への復学は翌年だった。原爆の傷跡が刻まれた左ほおは夏はハンカチ、冬はマスクで隠した。指が「く」の字になった左手は、包帯を毎日洗っては巻いて通学する。

 「にきび一つでも気になる年ごろでしょ…。それでも仲の良い友達ができたからよかった。学校を出てからが『戦争』だったの」

 日中はほとんど家に閉じこもり、夜になると独り海をながめる。新興宗教を渡り歩いてもみた。同じ年ごろの女性を街で見かけると「どうして私だけこんな目に…」。

 そんな娘を母はあえて外に出そうとした。その度に、やり場のない怒りをぶつけた。物を投げたことも。「代わってやれるものなら…」。母は肩を震わせるしかなかった。

 やがて勧められるまま、矢野町で盛んだった「かもじ」、日本髪のかつらづくりを内職とした。町役場の助役の計らいで地元の県教委出張所へ働きに出るようになった。しかし、傷を見るたび自分を責め、のろった。

 「私が憶病だったのか、本当に隠れるように生きていたの」

 被爆から9年後、4回にわたり手術を受けた。翌年の渡米治療に付き添うことになる原田東岷医師(84)の執刀であった。それが、鶴見橋で一命を取り留めた同窓生11人とともに、「ヒロシマ・ガールズ」に加わるきっかけになる。

(1996年6月18日朝刊掲載)

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