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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第1部 カナダに生きて <4>

■記者 西本雅実

自立への道 夢かなえ美容師免許

 銀幕のトップスター、高峰秀子さんによる「時の人」へのインタビューが、雑誌「婦人公論」にあった。

 1957年の新年号に始まるその第1回ゲストは「去る11月にアメリカから治療を受けて帰ってこられた原爆乙女の神辺さん…」とある。橘美沙子さん(66)だった。

 高峰 結婚についてはどういうふうにお考えになっていらっしゃいますか。

 神辺 尊敬する人がいたらいつでもします。でもそれより先に自立することが…。

 26歳の彼女はまた、「学費の保障をいただいたので、東京に出て美容学校へ行こうと思っています」と、胸の内を語っている。ホスト・ファミリーのクエーカー教徒たちは、帰国に際して300ドル(当時10万8000円)を贈っていた。大卒男子の初任給が1万円の時代だった。  米国で取り戻した生きる勇気、自立への夢。しかしそれが、いきなり壁にぶつかる。探し当てた最初の美容学校は原爆で傷を受けたと聞いただけで、入学を断ってきた。「逆に奮い立ちました。よし、負けてたまるかと思ったの」

 意思は道を切り開く。都内で1、2を競う「アーデン山中ビューティーアカデミー」に入学がかなった。校長の山中豊子さん(87)は戦前にロサンゼルスで店を開き、くしくも両親たちは広島で被爆していた。

 2年間の成績は実科でトップの「Aプラス」。欠席は9日。念願の美容師免許を取得した後は、求められて母校の美容院に残り、後輩の指導にも当たった。

 米国の「パパさん、ママさん」からは折に触れて手紙が来た。広がる夢を伝えると歓迎の返事。1960年再び渡米し、まずはコロンビア大の留学生語学校へ。「朝四時に起きても宿題は追い付かないし、オール・ザ・ウエイ(ずっと)苦労の連続で…」と苦笑いしながら振り返る。

 月謝の援助にこたえ、自らもベビーシッターなどをして、職業訓練校や大手化粧品会社の美容学校に通う。最新のパーマネントやシャンプー技術を学び、2年後にはニューヨーク州の美容師免許を手にした。

 さまざまな人種が行き交う街で、いいようのない解放感が貫く。そもそも傷跡をじろじろと見られることはなかった。学生ビザから職業訓練ビザに切り替えて、さらに日系人の美容店で2年働く。ドライ・ヘアの合間にマニキュアをするとチップが五ドル(1800円)。

 「好きな仕事にコンセントレーション(集中)できて、本当にうれしかったわね」

 4年ぶりに帰国した故国は高度成長への胎動、東京五輪(1964年)の開催に沸いていた。その年の末、広島で行く末を安じ続けていた母、マユミさんが58歳で死ぬ。「娘時代に母を泣かして苦しめ、寿命を縮めた…。後悔しました」。せめてもの親孝行とばかり、米国で蓄えた金で墓を建てた。

 父は口にこそしなかったが、末っ子の娘が郷里で店を開くことを願っていた。主任となった母校の美容院では、英語が話せることもあり外国人の客が絶えなかった。仕事に生きた。

 そんなある日、手にした美容雑誌で1つの記事が目に留まった。「技術移住者を受け入れ」・。港区赤坂のカナダ大使館は、店からほんの目と鼻の先にあった。

(1996年6月20日朝刊掲載)

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