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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第1部 カナダに生きて <5>

■記者 西本雅実

巡り合い 生いたちに共感 結婚

 カナダが技術移住者を受け入れ・。1966年の春にさかのぼる。橘美沙子さん(66)は、東京・赤坂の大使館を訪ねた。英語で面接を受けると、3カ月もたたないうちに美容師の資格で永住ビザが出た。

 「ニューヨークで働きたかったけど、当時、米国の労働ビザを手にするのは難しかったの。カナダは地続きだから同じようなものだろうと思って」。移住の動機は漠然としていた。

 国内は高度成長の「いざなぎ景気」が興り、ドラマ「おはなはん」が人気を呼ぶ。広島では原爆ドームの保存が決議される。その郷里にいた父は「見も知らぬ土地で何も苦労することはなかろうに…」。そう言いながらも末娘の意思を優先してくれた。

 移民局から紹介されたのは、カナダ中央に位置するマニトバ州ウイニペグ。先住民族が呼んだ「マニト(偉大な魂)」に由来し、ウイニペグは、サトウキビや小麦畑が果てしなく続く平原の州都。当時人口50万人のこの街で、3つ目の美容師免許を取った。

 東京、ニューヨークで磨いた腕には自信があった。それが、あては全く外れる。最初の店にはいきなり断られ、次の店では1日中立ち通しで働き、手にした週給はニューヨークのチップ2日分。移住者が多かれ少なかれぶつかる経験とはいえ、あまりの仕打ちに2週間で辞めた。

 「日本へ帰ろうにも、船便で送った身の回りの荷物が届かない。それで…」。行くあてもなく、電話帳で日系人の合同教会を探して訪ねた。その場で出会った1人の女性からフランス系オーナーの店を紹介される。「1年目からコミッションになるほど頑張ったの」。コミッションは店と本人が料金を折半する仕組み。

 2年後、1人の男性と出会い、結ばれる。「ほれた、はれたじゃないの。巡り合わせ」。結婚に話が及ぶと、そうした言葉が返ってきた。「まあ…。そんなところです」。それまでも物静かだった溥さん(60)は照れたように口数はますます少なくなった。

 「彼も戦争のためにしなくてもいい苦労をさせられたんです」。溥さんが食事を終えて芝生の手入れに向かうと、意を決したように話を続けた。満州(現中国東北部)生まれの溥さんは、引き揚げ途中に母を失い、父もようやくたどり着いた郷里・高知県で亡くなる。やむなく遠縁に当たるおじがいたウイニペグへ1956年、養子のようなかたちで渡る。出会ったころは、農家向けの通信販売会社で働いていた。

 初めから互いに引き合うものを感じる。が、溥さんは気の置けない友人ばかりか、周囲からも確かめるような口調で尋ねられた。被爆のことだった…。シャワーを浴びて席に戻っていた夫もうなずいた。

 「でも、その友人がジョーのベスト・メン(結婚式の介添え)となり、今も一番の親友なの」。ジョーは溥さんの英語ネーム。カナダ市民権を持つ。

 38歳で着たウエディングドレス。その日をだれよりも心待ちにしていたのは、父の吾市さん。広島に携えて帰った式の写真を食い入るように見つめた。カナダに戻る娘と旅をともにし、都内を「はとバス」で回った。「それが最初で最後の親子旅行でした」

 結婚祝いに父から贈られた日本人形が、自宅の居間を飾っていた。

(1996年6月21日朝刊掲載)

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