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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第2部 今なお <2>

■記者 増田咲子

子に、孫に 体験記 新たなきずなに

 母は最近、子に勧められ、65年前の体験をつづったばかりだ。原爆の爆風に吹き飛ばされたこと、遺体を焼くにおいは今も忘れられないこと、夜中に火の玉を見ても怖くなかったこと…。

 原稿用紙4枚。うまく伝わるか、書いている最中も不安が募った。しかし、読み終えた孫は「悲惨だったことがよく分かるよ」と感想を話してくれた。

 広島市中区の基町アパート。一人で暮らす被爆者の財満(ざいま)百合子さん(84)のもとに、西区の長男則正さん(61)と孫の大学4年陽亮(ようすけ)さん(21)が訪ねてきた。

 19歳だった財満さんは、比治山(現南区)にあった陸軍船舶砲兵団司令部に勤務していた。広場で将校に、松から油を取る方法を教わっている時だった。気が付くと兵舎の下敷きに。頭をけがし、服の右半分が血まみれになった。

 3歳違いの姉千代子さんを思った。「あの朝、私の持ち物を姉が勝手に使ったと、けんかしたまま家を出たんです」。2日後、司令部の外出許可を得て廃虚を横切り、現廿日市市の自宅まで歩いた。

 たどり着いた自宅に姿はない。消息は1カ月後、姉の会社の同僚から知らされた。宝町(現中区)辺りの勤務先で建物の下敷きになり、亡くなっていた。

 財満さんは戦後、国鉄勤めの夫と結婚。もともと洋品店を営んでいた母が商売を再開するのを機に、一緒に岩国から広島へ戻った。広島駅周辺などに店を構えた後、道路拡張に伴い、基町へ店舗と住居を移した。1953年ごろだった。

 それから30年余り、服地と洋品の店「はとや」を切り盛りしてきた。近くに天ぷら屋や青果店なども軒を連ね、地元の女性でにぎわった。ただ財満さんは、客と原爆の話をすることはなかったという。基町に被爆者がいなかったわけではない。むしろ多かったはずだ。しかし、話題にすることをお互いが遠慮した。

 夫が亡くなり、一人暮らしになった。アパートの窓から中央公園の豊かな緑が見える。部屋に趣味のちぎり絵作品を飾る。近所の人たちとのおしゃべりも楽しみの一つだ。

 そんな日々にふと思う。原爆がなければ、この街を姉と肩を並べて歩き、買い物を楽しんでいただろうと。原爆が断ったのも、戦後築き直したのも、家族のきずな。母の無念と苦労を知る則正さんが、陽亮さんたち孫の世代に読ませるためにと体験記を書くよう勧めてくれた。

 毎年8月6日に訪れて手を合わせる平和記念公園の原爆慰霊碑。この夏は、則正さんや陽亮さんを誘ってみようと思っている。

(2010年7月26日朝刊掲載)

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