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連載・特集

被爆65年 ヒロシマ基町 第2部 今なお <5>

■記者 増田咲子

母100歳 支える「娘」 面影を胸に

 広島市中区基町の高層アパートに暮らす被爆者の森藤子さん(100)は6月下旬、転んで左脚を骨折し、安佐南区の病院に入院した。

 7年ほど前から基町に出向いて森さんを介護しているヘルパーの宮崎隆子さん(64)=安佐南区=が、入院中も毎日のように見舞い、洗濯などの世話をする。「母にできなかったことをしてあげたいから」。森さんの姿に亡き母を重ねる。

 「原爆のこと、覚えとる?」。宮崎さんが尋ねた。

 「覚えちゃおる。牛田におった。ピカッと光った」。森さんが答える。

 35歳だった森さん。爆心地から約2.3キロの牛田町(現東区)で被爆し、自宅は半壊した。実家は中島本町(現中区中島町の平和記念公園)にあった、うちみ薬店「大藤喜鳳堂」。周辺の親類たちを心配し、森さんは被爆直後の爆心地近くへも出向いた。その際、顔にやけどのような原因不明の症状が出たという。

 めいが全身にやけどを負い、森さん宅まで逃げてきた。うじがわき、必死の看病にもかかわらず、亡くなった。

 「原爆の話は、しやしません。嫌な話は、なるべくせんようにしてきた。でも、平和でないといけんね」

 戦後、夫を亡くした森さんは1978年から、基町アパートで一人暮らしを始めた。

 デパートが近く、買い物にも便利だった。数年前まで着物姿での外出が楽しみだった。住民同士の親睦(しんぼく)会や敬老会にも出席してきた。下町のような近所付き合いの基町から離れ難く、宮崎さんたちの助けも借りながら、ここで生きてきた。

 「実は私、胎内被爆なんです。森さんの苦労はよく分かる」。宮崎さんが打ち明けた。爆心地から約1.6キロの昭和町(現中区)にあった自宅で、母親の胎内で被爆し、その年の10月に生まれた。

 次兄は自宅の下敷きになって3歳の短い生涯を閉じたという。4歳だった長姉は後頭部や背中に大やけどをした。そして93年に81歳で亡くなった母は、森さんとほぼ同世代だった。

 「母は、おなかにいた私を必死で守ってくれた。兄が亡くなり、姉がやけどをし、とても動揺したはずです。それでも、こうして私を産んでくれて…。感謝しています」

 宮崎さんはここ数年間、「あの日」を森さんのアパートで迎えてきた。仏壇に手を合わせ、犠牲者を悼んできた。今年も、その8月6日が巡り来る。

 入院中の森さんに、宮崎さんはベッドわきから声を掛けた。「早く良くなって、基町に帰らんといけんね」=おわり

(2010年7月29日朝刊掲載)

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