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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第2部 日米を結んで <1>

■記者 西本雅実

再会 40年ぶり執刀医囲む

 摩天楼がそびえる米ニューヨーク・マンハッタン。その西57丁目にある「ニッポン・クラブ」で5月9日、ささやかな夕べが開かれた。「ヒロシマ・ガールズ」の関係者を歓迎する集いである。

 いち早く現れたバーナード・サイモン医師(84)は、再会に心弾む口ぶりで話した。「ガールズが新しい人生を手にしたあの事業に参加できたのは、今も誇りとするところだ」。25人の被爆女性たちが治療を受けたマンハッタンのマウント・サイナイ病院の外科医として形成手術に当たった。

 「本当に控えめでやさしい娘たちばかりでした」。「不戦」を教義とするクエーカーの立場からホスト家庭を引き受けたエロイーズ・ヒックスさん(87)も、つえを手にそうほほ笑みながら静かに待ち受けた。

 2人の顔に刻まれた深いしわが、あれからの時の長さを物語る。往時を知る米国側の関係者は数少なくなった。

 「ドクター…」。会場に現れた4人の女性は次々とサイモン医師と抱擁を交わし、目頭をしばたたかせた。

 くしくもこの日は、原爆の熱線による傷跡に苦しんだ末に、不安と期待に揺れながらニューヨークに降り立ったその日と重なる。そして人生の再出発ともなった思い出の地で、一堂が再会を果たしたのは40年ぶりだった。

 被爆証言活動をしている山岡ミチコさん(66)=広島市中区西平塚町=と、治療がきっかけで米国人と結ばれた田坂博子さん(64)=広島県豊田郡瀬戸田町=が、墨で「愛」と書いた色紙を医師に手渡す。裏返すと、広島にいるガールズ8人の名前も寄せ書きされていた。

 「オー、ユウ・ハブ・メニ・ガールズ(たくさんの娘がいるわね)」。ロサンゼルスに住む米国籍のシゲコ・ササモリ(恵子・笹森)さん(64)が英語で沸かす。「今の幸せを分かち合いたい。それで駆け付けました」と、カナダで暮らす橘美沙子さん(66)。旧交を温め合う夕べは笑顔のうちにふけた。

 原爆投下から10年後。日米の市民が手を携えて1つの事業を成し遂げた。それが、1年半に及んだ「ヒロシマ・ガールズ」の治療事業である。

 夕べに続く翌日、その治療事業をテーマにした会議が、マウント・サイナイ病院のホールであった。若い医学生に原爆医療の事実を伝え、人権や環境、社会正義を確立する今日的な医療協力の参考にしようと、病院と併設の大学が企画した。

 約100人の聴衆を前に、3人の執刀医のうちただ1人健在のサイモン医師は、さまざまなエピソードを交えて、事業を支えた人たちの献身ぶり、ガールズとの思い出を紹介した。それにこたえるように、ガールズ4人が登壇した。「私たちがこうして生きて来られたのは、素晴らしい人との出会いがあったからです」。真心と感謝を込めたスピーチが、何よりも平和への熱い願いを伝えた。

 会場で耳を傾けていた医学生の1人が漏らした。「戦争の記憶が生々しかった、原爆がタブーだった時代に、どうしてあれだけのことができたんだろう…」。話を聞くうちに半ば驚きの表情が広がって行った。

 半世紀を超えてなお、被爆の実態について、日米の間で共通の認識があるとは言い難い。原爆投下をめぐる溝を埋める試みでもあった「ヒロシマ・ガールズ」の治療事業の内容と精神を追う。

(1996年7月8日朝刊掲載)

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