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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第2部 日米を結んで <3>

■記者 西本雅実

敵国治療 実結んだ償いの善意

 谷本清牧師が呼び掛け、ノーマン・カズンズ氏が受け止めた「ヒロシマ・ガールズ」の渡米治療。1955年4月、その人選が広島市民病院であった。

 予診に臨んだ37人のうちから、形成手術の効果が期待でき、それに耐えられる体力を持つ独身者25人が選ばれた。最年長は31歳だった。

 日米の医師による診察と、選考結果を伝える新聞記事をひもとくと、当時の広島市厚生局長の次のような談話が目を引く。「とやかく一部では非難の声も聞かれるが、好意は素直に喜びたい」。渡米治療を見る地元の目は冷ややかなものがあった。

 原爆を投下した旧「敵国」での治療。被爆者を検査対象として扱う米国の機関、原爆傷害調査委員会(ABCC)への反発と相まって、治療の狙い、行く末をいぶかる声は少なくなかった。

 地元の原対協委員として選考に当たった原田東岷医師(84)=広島市中区=も、治療の同行を求められてためらいを覚えた。考えあぐねて広島大名誉教授の長田新さん=1961年死去(75)=を訪ねる。被爆体験記「原爆の子」の編者はこう答えた。「米国の市民が良心と償いを示そうとする善意には善意で報いるべきだ」と。腹を決めた。

 選考会から1カ月後。同行者を含めた1行35人は原爆慰霊碑に参拝し、米軍岩国基地から飛び立つ。輸送はカズンズ氏の働き掛けで米軍が当たった。5日がかりでニューヨーク郊外のミッチェル空軍基地に降り立つ。新聞・テレビのカメラが初めて目にする被爆者の一団を追い掛けた。

 「政府の内部では渡米治療を阻止しようとする動きがあったんだ。『共産主義者の陰謀だ』と言ってね」。長らく宗教紙の記者を務めたワシントン在住のグレン・エバレット氏(75)はそう振り返る。治療事業の窓口だった「ヒロシマ・ピース・センター」協力会の理事としてガールズを出迎えた。

 旧ソ連との冷たい戦争を背景に、米国はその3年前に水爆実験にも乗り出していた。政府は、原水爆の開発に反対を唱える声が国内で広がるのを何より恐れた。国務省はガールズを乗せた空軍機C54の飛行中止を日本へ打電したほどだ。

 ガールズの入院治療は、カズンズ氏と同じユダヤ系米国人が創設した「マウント・サイナイ病院」が応じた。摩天楼の街でも1、2を競う規模を誇る病院。そこに専用の2室が用意され、3人の外科医が交代で執刀に当たった。主任のアーサー・バースキー外科部長=1982年死去(83)=はじめ3人は大戦中、欧州戦線に医師として従軍していた。

 セントラル・パーク近くに住む、ただ1人健在のバーナード・サイモン医師(84)は「われわれは戦場で恐ろしいほど傷ついた人間を診た。その経験が役立つならばと、治療を引き受けたんだ。患者を診るのが医師の務めさ」と明快な口調で語った。

 顔、のど、手…。原爆の熱線を浴び、忌まわしく盛り上がったケロイドを切り取り、その跡に、腹部などの皮膚を移植していく。1年半に及んだ手術は、延べ140回を数えたという。気の遠くなるような治療に耐え、覚えたての英語で感謝の気持ちを示す態度に心打たれた。

 「全力を尽くしたが、被爆前の姿に戻れたわけではない。それよりガールズが人生の喜びを回復したことに、あの事業の成果があった」。7年前に引退したサイモン氏はそう言うと、日米の2人の婦人の名前を例に挙げた。

(1996年7月10日朝刊掲載)

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