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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第2部 日米を結んで <4>

■記者 西本雅実

二人の母 苦難を共有無償の愛

 40年たった今も、「ヒロシマ・ガールズ」の一人が大切に持つ写真がある。日米の婦人が手をつなぎ、笑みを浮かべてたたずむ。治療に当たったバーナード・サイモン医師(84)も「あの二人の婦人がいたからこそプロジェクトは成功したんだ」と、その献身ぶりを手放しでたたえる。

 1年半にも及んだガールズの治療と滞米生活。写真の主は、広島から付き添い25人全員の手術に立ち会った横山初子さん(87)=広島市西区=と、クエーカーたちでつくる「フレンド奉仕団」事務局長でホスト家庭を取りまとめたイダ・デイさん。3年前に86歳で亡くなっていた。

 クエーカーは17世紀半ば英国で興ったプロテスタントの1宗派。教会を持たず、その教えは「神が宿る人間をどうして殺せるのか」。戦争でも銃を取らない。ガールズは2人1組で、そうした平和を希求する人たちの元で過ごす。

 デイさんの呼び掛けに応じたホスト家庭は、病院への送り迎えから、野球観戦にピクニック…。彼女たちの自立を願い、英会話やタイプ、洋裁学校にも通わせた。ある女性教師は夫を亡くしていたにもかかわらず1年間仕事を中断し、4人を引き取った。

 だれもが、異国で手術に立ち向かう不安を和らげようとした。彼女たちも「パパママ」と呼んで慕った。言葉は通じなくても親子のような触れ合いが広がった。

 数少なくなったホストの1人で、ニューヨーク郊外のジュリア・コルケベックさん(85)は治療事業に応じた訳をこう話す。「身の毛も焼き尽くす兵器で傷ついた人たちをお世話できる。そうした機会を与えられて光栄に思った」

 心を寄せたのはクエーカーだけでない。日米の戦いで強制収用という過酷な運命を強いられた日系人たちだ。ニューヨークで出ていた邦字紙「北米新報」にその一端を見ることができる。

 「当地の442部隊が招待」「見舞い金を募集」。収容所から欧州戦線に向かった日系2世は慰問ダンス・パーティーを開く。1世は自宅に招き、和食でもてなす。それぞれが、生活の再建に追われていたにもかかわらずだ。

 その442部隊に所属していたジミー・コンノさん(73)は「困った人を助けるのは当たり前のことだよ。それよりも苦難に耐える彼女らの勇気の方が印象に残っている」と言う。やはり亡き夫が部隊員のメリー・コウチヤマさん(75)は、ハーレム(黒人街)の自宅で言葉をつないだ。「私たちは怒っていたの。それまで使ったことのない爆弾で女性や子どもを殺し、傷つけて」

 当時、4児を抱えていた彼女は、日本食を作るのは下手なので見舞いの品はいつもクッキーだったと笑う。「そう、病室にはいつもヘレンが母親のように寄り添っていたわ。元気でいるかしら?」

 ヘレンは横山さんのミドルネーム。体調を崩しながらも、これだけは伝え残したいと取材に応じた。「デイさんをはじめ、偽りのないあふれる人の愛に接した。それでガールズは生きる勇気、自信を取り戻したの」

 米国生まれの彼女はカリフォルニア州立大を卒業し、戦後は広島にできた原爆傷害調査委員会(ABCC)に勤めていた。付き添いを求められ、ためらわず職をなげうった。夫と子ども二人を残しての同行。「そうせずにはおれなかったの」。ここにも無償の愛を降り注いだ人がいた。

(1996年7月11日朝刊掲載)

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