×

連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第2部 日米を結んで <5>

■記者 西本雅実

平和の使徒 援護行政呼び起こす

 渡米治療のけん引車ノーマン・カズンズ氏=1990年死去(75)=が「平和の使徒」と呼んだ「ヒロシマ・ガールズ」。治療が行われた1955年から1956年にかけて、全米を代表する現地の新聞「ニューヨーク・タイムズ」は詳細に報じている。

 写真3枚を添えたガールズ二十五人の到着から「8・6」の日の病院での様子…。16回にわたって取り上げひとかたならぬ関心を寄せていたのがうかがえる。

 その記事の内容は「原爆の恐ろしさは日本によるパール・ハーバー(真珠湾)攻撃と似ている」とのガールズの一人の談話を引き、投下はやむを得なかったとする多くの読者を安心、納得させる。一方で「ひどい傷を受けた女性の治療行為で、われわれ自身を称賛はできない」と書く。大量殺りく兵器、原爆の使用をめぐり相反する、矛盾した思いがあらわになっていた。

 ハリウッドのテレビ局は、渡米治療を提唱した谷本清牧師=1986年死去(77)=を招いて彼の半生とガールズ2人をシルエット姿で紹介した。その30分番組は原爆投下機「エノラ・ゲイ」の副操縦士も登場するあざとい演出だったが、募金を呼び掛けると、わずか1カ月余で2万人を超す市民が5万ドル(当時1800万円)を寄せた。

 渡米治療に同行した4人の医師のうち、ただ1人健在の原田東岷医師(84)=広島市中区=は振り返る。「原爆の悲劇は終わっていない。それに目を見開き、核兵器がもたらしたものを受け止めた」と、浄財に込めた米国民の意思をみる。国内においては「渡米治療が起爆剤となり、政府にも被爆者援護行政への関心を引き起こした」。

 その原爆被爆者医療法が施行されたのは、ガールズが帰国した翌1957年だった。原田医師ら広島原対協のメンバーは、米国からの浄財を入院患者の生活費に充て、女性13人の形成手術を開院間もない広島原爆病院で行った。

 帰国後のガールズは、結婚、就職、大学進学…とさまざまな道を歩む。当時、国民的な広がりをみせた原水爆禁止運動にも参加する者もいた。ホスト家庭だったクエーカーの元軍人が核実験抗議船に乗ると、進んで留守家族へ激励の手紙を送った。

 しかし、いつしか表だった行動は申し合わせたように避けるようになった。渡米治療に向かった5月にちなんでつくった「さつき会」も解散した。まとめ役の一人(71)=広島市南区=は「夫や子ども、孫のいる人、独り身の人。それぞれの生活も違うし…」と話す。そっとしておいてほしいという思いがひしひしと伝わる。

 日米で身をもって被爆の実態を伝えた「平和の使徒」たちは、5人が亡くなり、17人が広島で、3人が北米で暮らす。最も若い人でも58歳になった。

 母親代わりとなって付き添い、今も彼女たちの相談にあずかる横山初子さん(87)=広島市西区=は「みんな原爆の傷を乗り越えて堂々と生きてきた。素晴らしい人たちとの出会いがあった。だからこそ、戦争を知らない多くの人に貴重な体験を伝えていってほしい」と願い続ける。

 広島赤十字・原爆病院に、ホスト家庭を取りまとめたイダ・デイさん=1993年死去(86)=の名を刻んだ車いす5台がある。遺言に基づき贈られた。その橋渡しをしたのはかつての「ガールズ」。横山さんは体調を崩して以来、検診の日に好んで使う。人の愛、ぬくもりが体を貫くからだ。=第2部おわり=

(1996年7月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ