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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第3部 半世紀を超えて <1>

■記者 西本雅実

亡夫の胸像 あふれる愛 心の糧に

 「ここで13回の手術を受けました」。米ニューヨークのマウント・サイナイ病院で5月にあった原爆医療会議。田坂博子さん(64)は英語のスピーチをこなした。目立つことは苦手。それでも出向き、治療事業への感謝を述べずにおれなかった。最愛の夫と巡り合うきっかけになったからだ。

 自宅のある広島県豊田郡瀬戸田町の生口島。ミカン畑が広がり、世界最長の斜張橋となる多々羅大橋の工事が進む。83歳の母と妹夫婦が隣に住む玄関で、白い胸像が出迎えた。

 「広島で学んだ服装学院の恩師が作ってくださったの。本当にトビーによく似ているんですよ」。トビーは米国人の夫、ハリー・ハリスさんの愛称。その像は、優しさと秘めた意思を忍ばせる目に口元、そして大きな鼻が印象的だ。亡くなって7年の歳月が流れた。

 島に戻ったのは「思い出が詰まるボルティモアで暮らすのは寂しくて」。10歳年上だった夫は米ボルティモアの新聞社を定年退職して夫婦水入らずのところ、動脈瘤(りゅう)を患い、手術中の事故で亡くなった。23年間の結婚生活だった。

 心にぽっかりと開いた穴を埋めるように、米国時代から書き始めていた自分史をつづる。それが東京の出版社の目に留まり、被爆50周年の昨年に『ヒロコ 生きて愛』と著した。

 広島女子商2年の時に動員先の中区鶴見町で見た原爆投下機、わらにもすがる気持ちだった渡米治療、ホスト家庭の励ましとハリスさんとの出会い、求婚を振り切り帰国して開いた洋裁店…。何より10年間に及んだ手紙のやり取りの末に結ばれた夫のあふれる愛を、半生を飾らずに記した。

 夫は第2次大戦中、フランス沖で機銃掃射の襲撃を受け、その時いた甲板でただ1人生き残った。しかし、その体験を最後まで話すことはなかった。

 「亡くなる直前、義弟から聞いて初めて知ったんです。言葉に表せない体験をしていたから、私を選んだと思われたくなかったんでしょう…」。同じように戦争を憎んだ夫の心遣いを推し量った。

 著書を出して以来、出版社を通じて住所を知った人から便りが続く。「あの日」鶴見町にいて死んだ同級生の妹からの文面が胸をついた。中学生らの激励に思わず、ほおが緩んだ。横浜の女子学生らが今年の原爆忌に寄せて来訪を伝えてきた。

 一方で、広島からの帰りの電車で過日聞かれたひとことに心をかきむしられる。「何か事故に?」。傷跡は隠しようがなく、植皮のため口は思うように開かない。ぶしつけにそれを問われたことではない。被爆という事実が忘れられ、また、知られていないことにだ。

 「以前は、原爆は思い出したくなかった。今は元気なうちに話すべきことは話し、伝えておかないと。そう思えるんです。年を取ったせいかしら」。その声は伸びやかに、明るい。だからこそ本を著し、こうして取材も受けた。

 通信教育で続ける文章教室に加えて、聞き取れない単語があったからと英語の学習を始めた。「悔いのない人生を送りたい」。その思いがあふれる。

 「人間にとってもっとも大切なものを残していってくれたのです」。著書でそうしのんだハリーさんの墓は町内の寺にある。博子さんの戒名も刻んであった。 

 被爆半世紀を超えて、生き抜いた「ヒロシマ・ガールズ」。彼女たちの平和への心象をたずねる。

(1996年7月26日朝刊掲載)

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