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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第3部 半世紀を超えて <3>

■記者 西本雅実

4児の母 夢みた国 信仰が励み

 ミツコ・サカモト(旧姓倉本美津子)さん(60)は渡米治療後、米国にとどまり結婚した。探し訪ねると「広島の皆さまはお元気でしょうか」。快くドアを開けた。

 ロサンゼルス中心街からハイウエーを南に走り約30分、人口約4万8000人のガーデナ市。かつては日系農家が集まり、その跡に広がった工場で働くアジア系の移住者が増える。手入れされた松やミカンの木が自宅の庭を彩っていた。

 「広島にいたころは朝晩、神様に『米国へ行かせてください』とお祈りしていました。渡米治療者の名前をラジオで知った時の喜びと言ったら…」

 そこまで話すと、ティッシュを手に取った。右目の涙腺(せん)が切れたままだという。目元をぬぐうと、再び穏やかな口調で話し始めた。「原爆の時は大芝国民学校の3年生でした」

 分散授業があった西区三滝町、爆心地から約2.5キロで被爆し、ガラス片が突き刺さった右目を摘出した。町中でいつもじろじろと見られるのがたまらず、義眼を隠す眼帯が外せなかった。しかし、ガラス製は身を切り刻むように重い。プラスチック製がある、と聞いた米国を10代のころから夢見た。

 その義眼は、ニューヨークのマウント・サイナイ病院で形成手術を受けた折、1人の技師から贈られた。ホスト家庭はサングラスを買い与え、地元の高校に通わせた。言葉だけでない、行為を伴った心からの励ましが身に染みた。

 「こんな国で暮らせたらどんなに幸せかと思いました。母の親類がロサンゼルスにおり、それで主人を紹介されたんです」。広島に戻らず1956年9月、隣のネバダ州で結婚届を出した。日本人がカリフォルニア州で結婚し、永住するのはまだ容易でなかった。

 夫のフランク・サカモトさんは、両親が広島出身の日系2世。「ゴー・フォア・ブローク(前を見て闘い続けろ)」。それを合言葉に欧州の激戦地を転戦した第442部隊、日系部隊の元兵士だった。後にクリントン大統領を生むアカンソー州の収容所から志願し、除隊後は庭園業を営んだ。

 家族のアルバムを繰りながら振り返る。「僕もイタリア戦線で右足を撃たれて傷があるんだと、慰めてくれました。理解のあるやさしい人でした」。がんのため六年間にわたる闘病生活の末に昨年5月、73歳で亡くなった。「この家を売ってもいいと思って、あらゆる治療をしてみたのですが…」

 ようやく気持ちの整理がついた今、住み込みで働ける仕事を探す。4人の子どもがいるが、元気なうちは自分の力を試したい。「イエス様にお祈りをしています。願いはきっとかなうと思います」と、淡々と言葉をつないだ。

 信仰が何より心の支えだ。市民権を手にした33年前に洗礼を受けた。2男と2女が独立すれば、夫のいとこが伝道活動を続けるブラジルに渡り、手伝いたいとほほ笑んだ。

 「広島に帰られた皆さまの幸せと、戦争のない平和な世界を祈っております。そのことを、くれぐれもお伝えくださいませ」

 そう言うと、渡米治療に付き添った横山初子さん(87)=広島市西区=と原田東岷医師(84)=同中区=への手土産をことづけた。原爆に遭いながら被爆者健康手帳は一度も手にしたことはなく、米国の医療保険もない。それでも「すべてに感謝しております」。静かに言い切った。

(1996年7月28日朝刊掲載)

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