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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 第3部 半世紀を超えて <5>

■記者 西本雅実

疼き いえぬ傷 口数も少な

 瀬戸内海を望む広島県西部の福祉施設。彼女は、現役ケースワーカーとして、介護の仕事を人生の伴りょに生きてきた。この8月で65歳になる。幾度かのやり取りの末に、名前を出さない条件で取材に応じた。「ヒロシマ・ガールズ」だったのを隠すというのではない。自己PRに見られたら本意でないし、たまらないから、という。

 広島女子商2年の14歳だった。爆心地から約1.5キロの中区鶴見橋の近くで建物疎開作業中に被爆し、身を焼かれた。日夜ウミを取り続けた父母は「心までピカにやられるな」と、胸も張り裂けんばかりに励ました。

 「マミーたちからも、前向きに生きる考え方、人間の真価は外形じゃないことを教えられたわ」

 米国で13カ月の治療生活。ホスト家族のクエーカーたちは、帰国に際して、彼女が働いていた視覚障害児施設のために点字タイプライターと、「あなたが受けてうれしかったことを周りにしなさい」と、はなむけの言葉を贈った。

 「こうして今の道を選んだのは、私なりに恩返しの気持ちもあるんよ」。照れ笑いのうちに、目頭が濡(ぬ)れていた。

 広島のデパートで働きながら母校の定時制で新制高校の卒業資格を得て、27歳で明治学院大に入学。福祉学を専攻した彼女に、マミーたちは毎月15ドル(当時5400円)の奨学金を送って来た。下宿代が畳1枚1000円の時代だ。

 卒業後は郷里で、ケースワーカーとなり、高齢となった被爆者を受け入れる民間の特別養護ホームが開設されると、そこで24年間働く。昨年に現在の関連施設に移った。

 ホームは平和学習で東京の女子高校生たちが訪れる。求められれば、「あの日」からの歩みを語る。

 「友達は家族に別れを告げることもできず、亡くなった。戦争ほど悲しい死はないし、終わったからと苦しみが癒(い)えるものでもない」。その思いを、ガールズとしての体験を繕わず話す。声高なメッセージは口にしない。「進んで話したいわけじゃない。だけど、思いは伝わってほしいよね。被爆者の多くはそうじゃないかな…」

 北米で暮らすガールズを除く17人全員が、広島県内で健在だ。手紙で取材の趣旨を伝えて電話をするたび「原爆のことはもう…」。重苦しい沈黙が続いた。若いころ世間の心ない視線にさらされた疼(うず)きが、息遣いに響いた。

 米国で愛を注いだ人たちへ仲間の分まで欠かさずクリスマスカードを送り続ける人。広島を訪れた修学旅行生たちへ講演者に代わって励ましの返事を書く人。孫7人に語り継ぐ人…。

 治療をめぐる出会いを忘れず、その精神を引き継ぐ人たちも、やんわりと、時にはかたくななまでに拒んだ。名前ばかりか年齢や経歴など、周囲に本人と推察できる事柄に触れられるのさえ嫌がった。

 ガールズの1人は「50年かけて人並みの生活を手にした。今さら元の体に戻るわけじゃないし…」。涙声になりながら「こんな思いは私らだけでたくさん。それだけは伝えてほしい」と電話を切った。

 ヒロシマの歴史を生き抜いたガールズたちの証言や沈黙は、半世紀過ぎても癒えず、深く刻まれた被爆の傷を伝える。その重みを周りが受け止めて初めて、ガールズたちが進んで自らを語る日が来るに違いない。=おわり=

(1996年7月31日朝刊掲載)

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