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連載・特集

被爆から59年 あの日を刻む <3>

■記者 桜井邦彦、門脇正樹、山瀬隆弘

兄が語る 「和」の心 貫いたサダコ

 小学生のサダコは走るのが速かった。リレーのアンカーだった。50メートル走は7秒4―。子どもたちはそんな話に親しみを覚えるのか、身を乗り出して聞いた。

 広島で被爆して白血病を患い、回復を信じて鶴を折りながら、12歳で亡くなった佐々木禎子さん。世界に知られる妹サダコの素顔を知ってほしいと、兄の雅弘さん(62)=福岡県那珂川町=が6日、自分と妹の母校である幟町小(広島市中区)で講演した。被爆地で大勢が集まった前で、妹を語るのは初めてだった。

 妹が入院したのは、この小学校に通っていた6年の時。両親が楠木町(現西区)で営んでいた理髪店の散髪代が大人140円だったころだ。当時、100CCの輸血に800円、血液の流れをよくする注射に2100円かかったという。

 「とうちゃん。私、お見舞いの200円があるからね。お金はいつでもいいからね」。注射代を心配し、サダコは自宅に電話して家計を気遣った。入院中も決して「痛い」と口にしなかった。涙を見せたのは一度だけ、母フジ子さんが病院から家に帰ろうとする時だった。兄は間近で見ていた。

 幟町小に雅弘さんは、妹が最後に折った薬包紙の鶴を持参した。のぞきこんだ児童は「大きい折り鶴を作って、平和公園に届けるからね」と語り掛けてくれた。サダコの死を機に建てられた原爆の子の像が平和記念公園(中区)にあり、世界から折り鶴が届くことを、児童はよく知っている。

 今になってなぜ、妹を語るのか―。雅弘さんは淡々と「家族や友だちを思いやるサダコの心を伝え残したい」と言う。

 爆心地から1.6キロの楠木町の自宅で妹と一緒に被爆し、逃げる途中に黒い雨に遭った。だが、4歳だった自分には断片的な記憶しかなく、被爆の体験は語りにくい。

 しかし、妹の生き方、闘病生活を語ることはできる。父の繁夫さんは10年ほど前から、九州の小中学校などで講演を続けた。自分も美容院経営の傍ら同行して、話してきた。子を失った親の悲しみを語った父は2003年2月、87歳で亡くなった。妹を一番よく知るのは、自分になった。

 しかも、今年は妹の50回忌。郷里の広島でも伝えなくてはと思った。幟町小に続き、翌日にかけ市内の3小学校を回った。「君は50メートルは何秒なの」。児童たちと対話を続けた。

 安東小(安佐南区)では3年生以上の約400人が聞いた。子どもたちは「家が貧しいのを知っていて、わがままを言わなかったのですごいなあと思った」と正直な感想文をつづった。

 有名なサダコは自分たちと同じ世代だったと、等身大で実感してくれたことが、雅弘さんにはうれしかった。「妹の生涯は周囲を思いやる『和』の大切さを教えてくれる」。そんな確信を強めた。

(2004年7月23日朝刊掲載)

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