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連載・特集

被爆から59年 あの日を刻む <8>

■記者 桜井邦彦、門脇正樹、山瀬隆弘

一言を残す 思い起こす呼び水 期待

 「柿渋を飲んだりして苦しみに耐えました」「生かされていることに感謝します」。ペンを持つ手が震えたのだろうか、か細い字が色紙で揺れている。

 広島県被団協(坪井直理事長)は2年前、県内の会員約1万8000人に、肉筆で「一言」を書き残そうと呼び掛けた。これまでも被爆の体験記や自分史の執筆は提唱してきた。しかし、長文は苦手とペンを執らない被爆者も多い。「一言でいい。原爆に傷つき、その後も懸命に生きた証しを次の世代に残そう」

 安芸高田市甲田町の丸山巴さんは、かくしゃくとした90歳。今も車を運転する。甲田町原爆被害者の会を通じて県被団協の呼び掛けが届くと、すぐに色紙を手に、近くの11人の被爆者宅を歩いて回った。「孫子の代まで見てもらえるから」と勧めると、だれもがすぐにペンを握った。

 59年前、丸山さんは爆心地から1キロ余り、基町(現中区)の広島逓信局(現中国郵政局)4階にいた。辺りは焼け野原になり、川に死体が浮かぶ。その惨状を忘れたことはない。脱毛や下血にも苦しめられた。「非核三原則の順守を祈ります」―。自身はその13文字を色紙にしたため、2度と繰り返してはならないとの願いをこめた。

 町原爆被害者の会は1985年と1997年に被爆体験記「劫火(ごうか)の跡」を発行している。ただ、執筆者は2冊合わせて125人。今回は丸山さんたちの奮闘で、会員435人すべての一言を集めた。色紙は39枚になった。

 寄金八百三会長(73)は「全員そろって意思を残したかった」と振り返る。「体験を風化させちゃあいかん。今のうちに次の案を考えんと」。体験継承の次の策に思いをめぐらせるが、妙案はなかなか見つからない。

 「体力が落ち、何か行動するのも今がもう最後じゃろう」。福山市原爆被害者の会の池尻博会長(79)もそうこぼした。福山でも寄せ書きは、会員の9割に相当する約750人分を集めた。「一言じゃあ、むごたらしさは書き切れん。ですがなあ、後の人が当時を思い起こす呼び水になりゃあええと思う」

 2年後の2006年、福山市の会は結成半世紀の節目を迎える。発行する記念誌に、保存している色紙のコピーから一言を転載するつもりだ。

 県被団協には1年余りで県内から、合わせて約1万人分もの一言が集まった。「あの人の分まで頑張ります 命あるかぎり」「世界に笑い声が響きますように」。平和への決意と願いが詰まった579枚の色紙の保管は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に託した。

 甲田町の会の会員は現在、約400人。一言をしたためた時に比べ、2年間で30人余りの仲間が生涯を閉じた。色紙がはからずも、「遺言」となった。

(2004年7月29日朝刊掲載)

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