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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <6> 詩心の目覚め

■記者 伊藤一亘

中也に共感 創作始める

 岡山医科大(現岡山大)3年のとき、下宿で突然、洗面器1杯ぐらいの大量の喀血(かっけつ)をしましてね。そのまま大学の付属病院に入院しました。喀血と40度ぐらいの高熱が長いこと続きましたが、学友に輸血してもらい、なんとか命は助かりました。2カ月間まったく動けず、起き上がったときはふとんの下のマットが熱と汗で腐ってました。

 結核だった。1947年秋に故郷の岩国に戻り、国立岩国病院(現国立病院機構岩国医療センター)で療養中、詩と出合う

 体力を消耗していたので、長い文章はとても読めない。自然と詩を読むようになり、中原中也のとりこになりました。命のはかなさ、さわやかさ、そして透明感。中也の詩のそんな部分に共感しました。僕自身、血を吐きながら療養し、「死」がいつも隣り合わせだった一日一日を送っていたからかもしれません。

 それで自分も詩を書いてみようと思ったんです。ただ、中也のようなリズミカルな詩ではなく、散文詩でした。重症の僕は個室だったので、昼夜問わず、思い立ったときに起きて、思いつくままノートに書きつづっていました。あのころ、そう長い寿命がある感じがしなくてね。「何か書き留めておきたい」という思いが、僕に詩を書かせていました。

 初めて書いた「盲目の秋」は、中也の詩のタイトルを借りました。戦死した兄や原爆などを題材にした非常にロマンチックな作品です。新日本文学会の詩の新人賞に応募して、最終選考に残りました。結局、新人賞を取ることはできませんでしたが、大きな自信になりました。

 病院内に詩のサークルをつくって活動を始める

 当時、結核は国民病で、全国に療養所がありました。それぞれに患者自治会があり、文化活動も盛んでした。国立岩国病院には詩のサークルがなかったので、僕がつくりました。患者だけでなく、看護師さんたちも参加してくれました。

 病状が落ち着いてきたころ、久しぶりに広島に出ました。1949年の4月か5月ごろだったと思います。広島駅前にあった喫茶店「ムシカ」に入ると、たまたま棚に広島詩人協会の詩誌「地核」が何冊かとじて置いてありました。その編集人が峠三吉だった。一度会って話がしたいと思って、岩国に帰ってからはがきを出しました。

(2010年8月3日朝刊掲載)

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