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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <10> 樺さんの死

■記者 伊藤一旦

真相は今も不明 心残り

 1960年6月15日、日米安保条約の改定に反対する学生デモが警官隊と衝突、東大生の樺(かんば)美智子さん=当時(22)=が死亡する

 翌日、院長室に呼ばれました。副院長と社会党の坂本昭参院議員が「夕べの学生デモで樺さんが亡くなった」という。2人は慶応大医学部であった司法解剖に立ち会い、執刀した教授が語った解剖所見を逐一ノートに記録していました。そのノートを、当時僕が病理学の勉強に行っていた東京大付属伝染病研究所(現東京大医科学研究所)の草野信男先生に見せて、「死因について見解をまとめてくれ」と頼まれました。

 草野先生は、窒息死としながらも、警棒のような鈍器で腹部を突かれたためとみられる膵臓(すいぞう)の出血と、首に手で絞められたあとが残っている点を指摘されました。その話を報告すると、日本国民救援会長だった坂本議員は樺さんの死因について記者会見し、それを基に社会党は警視総監らを殺人罪で訴えました。

 しかし、東京地検は樺さんの死因を「人ナダレの胸腹部圧迫による窒息死」と発表する

 慶応大の教授は、僕たちの見解とほぼ同じ内容の鑑定書を提出したらしい。地検は受け取らず、書き直しを迫ったと、解剖助手だった医師から聞きました。その後、地検は東京大に再鑑定を依頼。東京大の教授は「人ナダレによる窒息死」とした鑑定書を提出し、膵臓の出血も窒息死が原因としたようです。

 坂本議員は、解剖を見学した東京大の教授が膵臓の出血を見た際、棒で突くような動作をしたのを見たらしい。怒ってね。樺さんの死因について朝日ジャーナルに寄稿すると言いだし、「おれは国会で時間がない。代わりに書け」と、僕が議員宿舎に泊まり込みで書かされました。

 50年後の今年、新たな証言を聞くことができた

 あの夜、樺さんがいた場所がずっとなぞだったんです。この4月、樺さんとデモに参加していた女性と会えました。彼女は機動隊との衝突の前面になり、警棒で腹や胸を突かれ、頭を殴られ、もうろうとして救急車で運ばれたそうです。樺さんもすぐ前の列にいたらしい。長年の疑問が解けました。人ナダレは、デモの後ろの方で起こりますからね。

 樺さんの死因の鑑定書は現在も公表されていません。権力による巧みな隠ぺいとでっち上げに、いまさらながら鳥肌が立つ思いです。

(2010年8月7日朝刊掲載)

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