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連載・特集

『生きて』 詩人 御庄博実さん <13> 韓国人被爆者

■記者 伊藤一旦

自分史執筆勧め励ます

 1990年、広島共立病院(広島市安佐南区)は在韓被爆者渡日治療広島委員会に参加する

 日韓政府の渡日治療が打ち切られたのに疑問を感じてね。もともと、同人誌「われらの詩」の仲間で、元三菱重工徴用工ら、在韓被爆者の救済に心血を注いだ歌人の深川宗俊から韓国の被爆者について聞き、関心を持っていました。

 治療のため来日した韓国人被爆者を、広島医療生協の「原爆被害者の会」の新年会や忘年会などに招いたりしました。彼らの大部分は「韓国のヒロシマ」と呼ばれる慶尚南道の陜川(ハプチョン)から来てました。その縁で「韓国原爆被害者協会陜川支部」と「原爆被害者の会」が姉妹縁組することになりました。一医療機関の会じゃアンバランスですがね。2001年4月に陜川を訪ねて調印しました。

 忘れられない韓国人被爆者がいる。李順基(イスンギ)さん(2001年に75歳で死去)だ

 1996年の渡日治療の際、共立病院に入院してきました。広島市の舟入町で生まれ、勤労奉仕先の富士見町で被爆。戦後、陜川に帰っていました。2000年に胃がんが見つかり、手術は成功しましたが、翌年、肝臓に転移が見つかりました。告知を受けた翌日、絶望した彼は僕にも黙って帰国しました。

 僕はすぐに長い手紙を書きました。「自分史を書いて支えにしろ」と。その後、励ますために陜川を訪ねた時、彼は大学ノートに80ページも書き進めていました。達者な日本語でね。司馬遼太郎が愛読書というぐらいで、素晴らしい文章でした。

 「『五十六年目の原爆症』/あの八月六日の劫火が/いま再び燃えあがる/あなたは いのちを削りながら/ヒロシマの日日からの/『自分史』を書く」(御庄博実「原郷」から)

 彼の自分史は、「引き裂かれながら私たちは書いた」(2006年、西田書店)に収めました。広島を大切にしていた思いが伝わってきて、痛烈です。彼は生前、平和記念公園でどんぐりを拾って陜川に持ち帰り、芽吹かせました。その木は、被爆者が暮らす「陜川原爆被害者福祉会館」で大きく育っています。

 僕は今、彼の家族から「広島の祖父(ハラボジ)」と呼ばれています。韓国併合100年。日本と韓国の間は、僕と彼の家族のようにつながりを深めることで、共存共栄していけるのではないでしょうか。

(2010年8月12日朝刊掲載)

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