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連載・特集

復興の風 1948年ごろ 基町 孤児に愛 修道女の天命

園庭ブランコ 笑顔咲く

 園庭に笑顔が咲く。木組みのブランコで風を切る少女。おかっぱ頭が揺れる。

 木造平屋の園舎は養護施設の「光の園摂理の家」。1948年、広島市中区基町の陸軍幼年学校跡地付近に建てられた。原爆や戦争で親たちを失った子どもを、カトリックの修道女(シスター)たちが育てた。

 写真右端の少女は薮本志乃美さん。いま、69歳になった。旧満州(中国東北部)から引き揚げた父は生活に行き詰まり、薮本さんを預けた。「でも、寂しかった記憶はない」と薮本さん。「シスターはいつも、笑顔で尽くしてくれたから」。自らもシスターになり福岡市の保育園で働く。

 光の園は47年、広島市安佐南区祇園にあった三菱重工の一角を借りて始まった。建物内で子どもたちが毛布にくるまり、寄り添い眠る写真が残っている。

 翌年に基町へ移転。多い時は100人近くを受け入れたともいわれる。現在は廿日市市にあり、約40人が暮らす。広島県内の他の児童養護施設の一部も、同様に原爆や戦争で家族と引き離された子どもを見守り、自立に導くため設立された。

 光の園を設置した「福音の光修道会」(廿日市市)の川坂香代子さん(81)は、当時から働く。薮本さんが記憶するシスターの笑顔の裏には、多くの苦労があったという。

 食糧難で栄養失調になりがちな子どもに野菜を食べさせるため、畑を必死に耕した。「僕たちの心なんか分からない」と寂しさをぶつける子もいた。

 川坂さん自らも千田町(現広島市中区)で被爆。ガラス片が刺さった首を押さえて逃げた。その後ずっと、瀕死(ひんし)の友人や助けを求める人を残したことを、申し訳ないと思い続けてきた。

 でも、光の園に入り運命の意味を悟った。「生かされたのは、この子たちを見守るためだった」。だからこそ、どんな苦難も受け止めることができた。

 「人は失うものもあるが、立ち上がる力も必ず得ている。苦しみから逃げないで」。東日本大震災の被災者に向ける言葉もまた温かい。(野田華奈子)

(2012年6月30日朝刊掲載)

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