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連載・特集

復興の風 1957年 八丁堀 被爆地沸いた広商凱旋

甲子園 戦後初の県勢V

 広島商業高(広商)野球部の凱旋(がいせん)パレードに、被爆地は沸き返った。夏の甲子園優勝を祝うファンが現在の福屋八丁堀本店前(広島市中区)にあふれた。

 「あんな人波、初めて見た」。主将だった迫田穆成(よしあき)さん(73)=三原市=は、先頭のオープンカーで深紅の優勝旗を構えていた。広島勢としては春夏通して戦後初の優勝だった。

 迫田さんは現在、如水館高(三原市)硬式野球部の監督を務める。甲子園に出場した年も、8月6日午前8時15分には練習場や宿舎で選手と黙とうを欠かさない。

 郷土代表として甲子園の土を踏み続けてきたいま、分かる。「若者の活躍は、古里を奮い立たせる」

 己斐東本町(現広島市西区)の自宅で被爆。父は原爆症で髪や歯が抜け、高熱を出した。「近所の人や同級生がぽつりぽつりと亡くなる。健康への不安はずいぶん後まであった」と打ち明ける。

 はつらつと白球を追う広商ナインにも、原爆が暗い影を落としていた。1番打者の佐々木明三さん(73)=東京都=は、西区南観音町の自宅前で熱線を浴びた。右腕と両足などにやけどを負い、走れるまで回復するのに3年かかった。

 ケロイドは、少年に半袖を着るのもためらわせた。被爆者をからかうような心ない言葉も浴びせられた。

 中学で野球を始め、広商に進んだ。「勝とうと思うな、負けまいと思え」と先輩からたたき込まれた。「厳しい練習に耐えるうち、何くそっと歯を食いしばる精神を学んだ」。佐々木さんはいま、小学生に野球と広商魂を教えている。

 東日本大震災と福島第1原発事故で被災した子どもたちとかつての自分が重なる。「逆境や風評被害に負けるな。きっと明るさは取り戻せる」。広島を沸かせたあの夏から、そう確信している。(野田華奈子)

(2012年7月10日朝刊掲載)

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